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少しのさまたげもなく、完全に一つに融けあっていること。 ([[往生要集中巻 (七祖)#P--955|要集 P.955]]) | 少しのさまたげもなく、完全に一つに融けあっていること。 ([[往生要集中巻 (七祖)#P--955|要集 P.955]]) | ||
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+ | それぞれのものが、その立場を保持しながら完全に一体となって、互いに融けあいさまたげがないこと。元来は、[[天台宗]]・[[華厳宗]]の教説であるが、親鸞はあらゆる徳が<kana>円(まどか)</kana>に満ちそなわっているという意に用い、真宗の教法、本願の名号、 真実信心を讃える語とする。『一多文意』には | ||
+ | : 「円融と申すは、よろづの功徳善根みちみちて、かくることなし、自在なるこころなり」(([[一多#P--690|註 690]]) | ||
+ | とあり、「総序」には名号のことを「円融無礙の嘉号」([[総序#P--131|註 131]])という。(浄土真宗辞典) | ||
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2023年3月30日 (木) 22:33時点における最新版
円融
それぞれのものが、その立場を保持しながら完全に一体となって、互いに融(と)けあいさまたげがないこと。
元来は、天台宗・華厳宗の教説であるが、親鸞聖人はあらゆる徳が円(まどか)に満ち具わっているという意に用い、真宗の教法、本願の名号、真実信心を讃える語とする。
少しのさまたげもなく、完全に一つに融けあっていること。 (要集 P.955)
出典(教学伝道研究センター編『浄土真宗聖典(注釈版)第二版』本願寺出版社
『浄土真宗聖典(注釈版)七祖篇』本願寺出版社
区切り線以下の文章は各投稿者の意見であり本願寺派の見解ではありません。
『浄土真宗聖典(注釈版)七祖篇』本願寺出版社
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