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出典: 浄土真宗聖典『ウィキアーカイブ(WikiArc)』

 
 
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 【左訓】「[[三界]]の衆生をわがひとり子とおもふことを得るを一子地といふなり」(異本)([[浄土和讃#P--573|浄土 P.573]])
 
 【左訓】「[[三界]]の衆生をわがひとり子とおもふことを得るを一子地といふなり」(異本)([[浄土和讃#P--573|浄土 P.573]])
  
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一子地 {仏教学辞典より抜粋}
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 すべての衆生を子のように憐れむ菩薩の地位を一子地といい、これを乾慧(けんね) などの十地の第二性地、或いは歓喜などの十地の第八不動地以上または初歓喜地にあてる。
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2023年11月29日 (水) 15:33時点における最新版

一子地

 【左訓】「三界の衆生をわがひとり子とおもふことを得るを一子地といふなり」(異本)(浄土 P.573)

巻末註
 すべての衆生を平等にわがひとり子のように憐れむ心をおこす位で、一般には初地(しょじ)歓喜地)の菩薩の境地。
親鸞聖人は、怨親を平等にみそなわす仏心のこととされている。→歓喜地 (かんぎじ)。

出典(教学伝道研究センター編『浄土真宗聖典(注釈版)第二版』本願寺出版社
『浄土真宗聖典(注釈版)七祖篇』本願寺出版社

区切り線以下の文章は各投稿者の意見であり本願寺派の見解ではありません。

いっしじ 一子地

 すべての衆生を平等にわがひとり子のように憐れむ心をおこす位で、一般には歓喜地の境地をいう。 親鸞は『浄土和讃』に

「平等心をうるときを 一子地となづけたり」(註 573)

と述べ、怨親を平等にみそなわす仏心のこととする。(浄土真宗辞典)

一子地 {仏教学辞典より抜粋}

 すべての衆生を子のように憐れむ菩薩の地位を一子地といい、これを乾慧(けんね) などの十地の第二性地、或いは歓喜などの十地の第八不動地以上または初歓喜地にあてる。 真宗では一子地を初歓喜地にあてて信心の現益(この世での利益)とし、かねて当益(未来世での利益)ともする。
また世親の浄土論に教化地の語があり、これを菩薩が教化する場所の意とも、菩薩の階位とも解し、階位とするときは第八地以上にあてる。→十地(仏教学辞典)