「七祖-補註11」の版間の差分
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− | 大乗仏教の菩薩はすべて菩薩としての共通の願 ( | + | 大乗仏教の菩薩はすべて菩薩としての共通の願 (総願。一般に[[四弘誓願]]として示される) をもつといわれるが、特別に独自の願 (別願) をたてるものもある。その典型的な例が 『大経』に説かれる法蔵菩薩の願である。『大経』によると、久遠の昔、世自在王仏のもとで一人の国王が出家して法蔵と名のり、一切衆生を平等に救おうとして四十八の大願をおこし、[[兆載永劫]] (はかりしれない長い時間) の修行を経て、今から[[十劫]]の昔に[[正覚]]をひらき阿弥陀仏になったと説かれている。阿弥陀仏はこの[[因位]]の法蔵菩薩の願行に[[酬報]] (むくいあらわれる) したものであるため、[[報身|報身仏]]とされるのである。 |
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+ | :① 不動而至の徳。三昧力によって、身を浄土に置いたままで、十方世界に至り諸仏を供養し衆生を[[教化]]する。 | ||
+ | :② 一念遍至の徳。一念同時に十方世界に至り[[化益]]をほどこす。 | ||
+ | :③ 無相供養の徳。一切世界の諸仏の[[会座]]にあますところなくあらわれて、すべての諸仏を供養し讃嘆する。 | ||
+ | :④ 示法如仏の徳。無仏の世界に出現して仏法僧の三宝を称讃し住持する。 | ||
阿弥陀仏の浄土はこうした功徳を具える無数の菩薩によって主 (仏) 伴 (眷属) 具足し、法性の世界としての徳をかぎりなくあらわしだすことになるのである。 | 阿弥陀仏の浄土はこうした功徳を具える無数の菩薩によって主 (仏) 伴 (眷属) 具足し、法性の世界としての徳をかぎりなくあらわしだすことになるのである。 | ||
− | なお、親鸞聖人はこの菩薩の四種正修行功徳について述べる 『論註』( | + | なお、親鸞聖人はこの菩薩の四種正修行功徳について述べる 『論註』([[浄土論註 (七祖)#P--136|下 一三六]]) の文を、「[[証巻#P--318|証文類 三一八]]」 の還相回向釈下に引用されている。その引用は四種の功徳をすべて仏果を証した[[還相]]の菩薩の[[大悲]]のはたらきとするものであり、『論註』の原意趣を如来回向の義からさらに一層深めていかれたものと窺うことができる。 |
2018年2月15日 (木) 16:33時点における最新版
七祖聖教 補 注 |
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七祖-補註1 阿弥陀仏 |
七祖-補註2 往生・浄土 |
七祖-補註3 機・衆生 |
七祖-補註4 教 |
七祖-補註5 行 |
七祖-補註6 業・宿業 |
七祖-補註7 信 |
七祖-補註8 旃陀羅 |
七祖-補註9 他力 |
七祖-補註10 女人・根欠… |
七祖-補註11 菩薩 |
七祖-補註12 本願 |
→注釈版 補注へ |
- 11 菩薩
菩薩とは、梵語ボーディサットヴァ (bodhisattva) を音写した語で、菩提薩埵ともいい、菩薩摩訶薩 (摩訶薩は梵語マハーサットヴァ〈mahāsattva 〉の音写、大士と漢訳)、あるいは覚有情・道衆生・道心衆生などともいう。さとりを求めて修行するもの、すなわち求道者の意である。最初期は成仏する以前の修行時代の釈尊を指す言葉 (釈迦菩薩)で、「さとりに定まった有情」 を意味するものであった。それが大乗仏教になると、意味が拡大されて、出家・在家、男女を問わず、仏陀のさとりを求めて修行するものをすべて菩薩と呼ぶようになったのである (凡夫の菩薩)。また大乗仏教では、普賢・観音・文殊などの大菩薩の存在も説かれるようになった。これらは生きとし生けるものを教化してやむことのない利他の精神に根ざした菩薩であり、普賢の行、観音の慈悲、文殊の智慧などがそれぞれ高唱されて、人々の信仰を集めるようになった。
大乗仏教の菩薩はすべて菩薩としての共通の願 (総願。一般に四弘誓願として示される) をもつといわれるが、特別に独自の願 (別願) をたてるものもある。その典型的な例が 『大経』に説かれる法蔵菩薩の願である。『大経』によると、久遠の昔、世自在王仏のもとで一人の国王が出家して法蔵と名のり、一切衆生を平等に救おうとして四十八の大願をおこし、兆載永劫 (はかりしれない長い時間) の修行を経て、今から十劫の昔に正覚をひらき阿弥陀仏になったと説かれている。阿弥陀仏はこの因位の法蔵菩薩の願行に酬報 (むくいあらわれる) したものであるため、報身仏とされるのである。
また大乗仏教の菩薩は仏に随伴するものとして仏事 (衆生救済のはたらき) をいよいよ荘厳していく存在でもある。『大経』は阿弥陀仏の浄土に数かぎりない菩薩がいると説くが、それらはまさしくこの仏事を荘厳し成就していく菩薩である。天親菩薩の『浄土論』および曇鸞大師の『論註』では、この浄土の菩薩に論及し、次のような四種の正修行功徳 (真如にかなった修行の徳) があることを指摘している。
- ① 不動而至の徳。三昧力によって、身を浄土に置いたままで、十方世界に至り諸仏を供養し衆生を教化する。
- ② 一念遍至の徳。一念同時に十方世界に至り化益をほどこす。
- ③ 無相供養の徳。一切世界の諸仏の会座にあますところなくあらわれて、すべての諸仏を供養し讃嘆する。
- ④ 示法如仏の徳。無仏の世界に出現して仏法僧の三宝を称讃し住持する。
阿弥陀仏の浄土はこうした功徳を具える無数の菩薩によって主 (仏) 伴 (眷属) 具足し、法性の世界としての徳をかぎりなくあらわしだすことになるのである。
なお、親鸞聖人はこの菩薩の四種正修行功徳について述べる 『論註』(下 一三六) の文を、「証文類 三一八」 の還相回向釈下に引用されている。その引用は四種の功徳をすべて仏果を証した還相の菩薩の大悲のはたらきとするものであり、『論註』の原意趣を如来回向の義からさらに一層深めていかれたものと窺うことができる。