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七祖-補註3

出典: 浄土真宗聖典『ウィキアーカイブ(WikiArc)』

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七祖聖教 補 注

七祖-補註1 阿弥陀仏
七祖-補註2 往生・浄土
七祖-補註3 機・衆生
七祖-補註4 教
七祖-補註5 行
七祖-補註6 業・宿業
七祖-補註7 信
七祖-補註8 旃陀羅
七祖-補註9 他力
七祖-補註10 女人・根欠…
七祖-補註11 菩薩
七祖-補註12 本願
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3 機・衆生

 とは、法(教法)に対する言葉である。一般に機と衆生は同じような意味で用いられているが、衆生(有情)は、「生きとし生けるもの」という意味であり、その衆生が教法に対したときに機といわれるのである。天台大師智顗の『法華玄義』* によると、機には微・関・宜の三義があるという。微とは「かすか」であり、「きざし」である。仏のみちびきによって菩提心を発動する「かすかなきざし」を内にもっていることをいう。関とは「かかわる」「あずかる」の意である。衆生は仏の説法の対象として深い「かかわり」があり、救いに「あずかる」べきものであることをいう。宜とは「よろしく相い応ずる」の意である。被救済者である衆生は救済者である仏と相応する関係にあることをいう。これらの語義からわかるように、機とは、仏の教えをこうむるべき対象であり、法によって救済されるべきもののことにほかならない。その機はまた「根」という宗教的素質をもっているので、根機とも機根ともいわれる。またそれは千差万別であるから、善機・悪機、大機(大乗を信じる機)・小気(小乗を信じる機)などともあらわされる。

 曇鸞大師は『論註』(上 九二)、八番問答において、極悪の機の救いの問題を論じている。すなわち、極重罪であるところの五逆(殺父・殺母・殺阿羅漢・出仏身血・破和合僧)と謗法(仏法否定の見解をもつこと)について、謗法が五逆よりも罪が重いことを示し、仏法を否定する謗法のものは、浄土を願生することがなく、それゆえ往生を得ることもないと説いている。これは謗法不生の理由を願生の信をおこさないためと示すものであるから、裏返していえば、謗法のものもその見解をひるがえして願生の信をおこしさえすれば往生するとあらわすものにほかならない。また五逆についても、十念念仏によってその罪が滅することを明らかにし、極悪の機である五逆・謗法も、法を信受すれば往生を得る道理があることを示されている。

 道綽禅師は『安楽集』(上 一八三)第一大門において、時と機が相応しなければ、証果(さとり)に達することができないとし、正像末の三時の変遷によって機根が劣悪化していくことを『大集月蔵経』の五箇の五百年説によって示して、今時がその第四の五百年の入末法時にあたることを指摘している。第三大門 (上 二四一) では、その末法時の衆生は仏の名号を称する以外にさとりへの道が断たれているとして、浄土の一門に帰入すべきことを勧め、機根の浮浅暗鈍なるものの救いを明らかにしている。

 善導大師は「玄義分 三一二」において、「諸仏の大悲は苦あるひとにおいてす、心ひとへに常没の衆生を愍念したまふ」といい、岸上の人よりも今現に水に溺れている人を急いで救うのが大悲の特性であると述べて、阿弥陀仏の救いのまさしきめあてが愚悪の機であることを明らかにされた。そして、その機のありさまをあらわして(機の深信)、「決定して深く、自身は現にこれ罪悪生死の凡夫、曠劫よりこのかたつねに没しつねに流転して、出離の縁あることなしと信ず」(散善義 四五七)、「自身はこれ煩悩を具足する凡夫、善根薄少にして三界に流転して火宅を出でずと信知し…」(礼讃 六五四)と示し、無始以来、流転して迷界を出るてがかりのない身というのが機の真実のすがたであると明かしている。

 源信和尚は『往生要集』(*) の序に、浄土の教法を「濁世末代の目足」として規定し、それに救いを求める自己を顕密の教法に堪えない「頑魯のもの」として位置づけている。第四正修念仏門の観察門では、観念の修行に堪えない劣機のために一心称念の道を明かし、第八念仏証拠門では、その称名念仏の証拠として『観経』下下品の意を「極重の悪人は、他の方便なし。ただ仏を称念して極楽に往生することを得」(往生要集・下 一〇九八)と示し、極悪の機が称名によって往生を得ることを明らかにしている。

 法然上人は「平等の慈悲」(選択集・本願章 一二〇九)が阿弥陀仏の選択の願心であるから、その願心を信じて念仏するものは、善人は善人のまま、悪人は悪人のまま、浄土に往生すると説き示された。しかも、とくに「貧窮困乏の類」、「愚鈍下智のもの」、「少聞少見の輩」、「破戒無戒の人」をあげ、こうした人々を救うために勝易具足の念仏が選択されたのであるとして、本願の平等性を愚悪の機に焦点をあわせて語っている。そして、極重の病を治す薬が最高のものであるように、極悪の機を救う法こそ最上のものであるとして、「極悪最下の人のために極善最上の法を説く」(選択集・讃嘆念仏章 一二五八)といい、底下の機をもらさず救う選択本願念仏の法を最勝のものと讃嘆されたのである。