操作

「力用」の版間の差分

出典: 浄土真宗聖典『ウィキアーカイブ(WikiArc)』

 
(同じ利用者による、間の4版が非表示)
1行目: 1行目:
 
りきゆう
 
りきゆう
  
「力」とは、「ちから」のことである。「<kana>用(ゆう)</kana>」とは「はたらき」「作用」のことであり、仏教用語の「<kana>体(たい)</kana>、<kana>相(そう)</kana>、<kana>用(ゆう)</kana>」の中の用(ゆう)である。「体」とは本体のこと。「相」とは、本来の性質あるいは性能の意。用とは、相としての体用の働きをさす。『大乗起信論』では、衆生の心の本体(体)そのものと、その性質(相)、さらに作用(用)とは広大無辺であるとして、体、相、用の三大という。 [[hwiki:大乗起信論#立義分|『大乗起信論』]]
+
「力」とは、「ちから」のことである。「<kana>用(ゆう)</kana>」とは「はたらき」「作用」のことであり、仏教用語の「<kana>体(たい)</kana>、<kana>相(そう)</kana>、<kana>用(ゆう)</kana>」の中の<kana>用(ゆう)</kana>である。「体」とは本体のこと。「相」とは、本来の性質あるいは性能の意。用とは、相としての体用の働きをさす。『大乗起信論』では、衆生の心の本体(体)そのものと、その性質(相)、さらに作用(用)とは広大無辺であるとして、体、相、用の三大という。 [[『大乗起信論』#立義分|『大乗起信論』]]
  
 
浄土真宗では、「力」とは『論註』不虚作住持の、
 
浄土真宗では、「力」とは『論註』不虚作住持の、
:いふところの「不虚作住持」とは、本法蔵菩薩の四十八願と、今日の阿弥陀如来の自在神力とによるなり。願もつて力を成ず、力もつて願に就く。願徒然ならず、力虚設ならず。力・願あひ符ひて畢竟じて差はざるがゆゑに「成就」といふ。([[浄土論註 (七祖)#P--131|論註 P.131]])、([[行巻#P--198|行巻 P.198]]、([[真巻#P--361|真巻 P.361]])
+
{{Inyou|
 +
:いふところの「不虚作住持」とは、<kana>本(もと)</kana>[[法蔵菩薩]]の[[四十八願]]と、今日の阿弥陀如来の[[自在神力]]とによるなり。願もつて力を成ず、力もつて願に<kana>就(つ)</kana>く。願[[徒然]]ならず、力[[虚設]]ならず。力・願あひ<kana>符(かな)</kana>ひて[[畢竟]]じて<kana>差(たが)</kana>はざるがゆゑに「成就」といふ。([[浄土論註 (七祖)#P--131|論註 P.131]])、([[行巻#P--198|行巻 P.198]]、([[真巻#P--361|真巻 P.361]])
 +
}}
 
の本願成就の「願力」を指し、その衆生[[済度]]のはたらきを用といふ。
 
の本願成就の「願力」を指し、その衆生[[済度]]のはたらきを用といふ。
 
  
 
なお、法然聖人は『西方指南鈔』四箇条問答で、
 
なお、法然聖人は『西方指南鈔』四箇条問答で、
:問。本願について、体用あるべし、その差別いかんぞ。 ([[hwiki:西方指南抄/中末#P--175|四箇条問答]])
+
:問。本願について、体用あるべし、その差別いかんぞ。 ([[西方指南抄#(一三)|四箇条問答]])
 
の問に答えて、本願の体用を論じておられた。覚如上人の『執持鈔』に「本願や名号、名号や本願、本願や行者、行者や本願」([[執持鈔#P--864|執持鈔 P.864]])とあるのは、この体用の意を引用されたのであろう。
 
の問に答えて、本願の体用を論じておられた。覚如上人の『執持鈔』に「本願や名号、名号や本願、本願や行者、行者や本願」([[執持鈔#P--864|執持鈔 P.864]])とあるのは、この体用の意を引用されたのであろう。
  

2024年7月8日 (月) 12:12時点における最新版

りきゆう

「力」とは、「ちから」のことである。「(ゆう)」とは「はたらき」「作用」のことであり、仏教用語の「(たい)(そう)(ゆう)」の中の(ゆう)である。「体」とは本体のこと。「相」とは、本来の性質あるいは性能の意。用とは、相としての体用の働きをさす。『大乗起信論』では、衆生の心の本体(体)そのものと、その性質(相)、さらに作用(用)とは広大無辺であるとして、体、相、用の三大という。 『大乗起信論』

浄土真宗では、「力」とは『論註』不虚作住持の、

いふところの「不虚作住持」とは、(もと)法蔵菩薩四十八願と、今日の阿弥陀如来の自在神力とによるなり。願もつて力を成ず、力もつて願に()く。願徒然ならず、力虚設ならず。力・願あひ(かな)ひて畢竟じて(たが)はざるがゆゑに「成就」といふ。(論註 P.131)、(行巻 P.198、(真巻 P.361)

の本願成就の「願力」を指し、その衆生済度のはたらきを用といふ。

なお、法然聖人は『西方指南鈔』四箇条問答で、

問。本願について、体用あるべし、その差別いかんぞ。 (四箇条問答)

の問に答えて、本願の体用を論じておられた。覚如上人の『執持鈔』に「本願や名号、名号や本願、本願や行者、行者や本願」(執持鈔 P.864)とあるのは、この体用の意を引用されたのであろう。