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出典: 浄土真宗聖典『ウィキアーカイブ(WikiArc)』

 
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まうあふ
 
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 あいたてまつる。『一多証文』に「まうあふと申すは、本願力を信ずるなり」とある。([[正像末和讃#P--608|正像 P.608]], [[一多#P--691|一多 P.691]], [[唯文#P--713|唯文 P.713]]))
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 あいたてまつる。『一多証文』に「まうあふと申すは、本願力を信ずるなり」とある。([[正像末和讃#P--608|正像 P.608]], [[一多#P--691|一多 P.691]], [[唯文#P--713|唯文 P.713]])
  
 
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もう‐あ・う[まうあふ]【参逢・値・遇】(「まいあう」の変化した語)<br />
 
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:'''会'''は、ある所に集まってあう。
 
:'''逢'''は、出逢う、その時節に逢う。
 
:'''逢'''は、出逢う、その時節に逢う。
 
:'''値'''は、チョクと読むときは真っ直ぐにあたることで、チと読むときは、値(あ)う、あたる、あたいするなどの意でぴったり出値(あ)い、いきあたること。<br />
 
:'''値'''は、チョクと読むときは真っ直ぐにあたることで、チと読むときは、値(あ)う、あたる、あたいするなどの意でぴったり出値(あ)い、いきあたること。<br />
 
:'''遇'''はたまたまとも訓ずるように、途中で予期せずに、ひょっこり遇(あ)うの意。
 
:'''遇'''はたまたまとも訓ずるように、途中で予期せずに、ひょっこり遇(あ)うの意。
  
まうあふは、平安時代の用語として、「まいりあう」という参上してお目にかかるという尊敬語が変化した語。古語の「あふ」には、こちらが相手にあうのではなく、相手がこちらにやってきて出くわすの意。尊い方などにおあいする。あわせていただくの意味がある。値と遇の用例に、
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まうあふは、平安時代の用語として、「まいりあう」という参上してお目にかかるという尊敬語が変化した語。古語の「あふ」には、こちらが相手にあうのではなく、相手がこちらにやってきて出くわすの意。尊い方などにおあいする。あわせていただくの意味がある。御開山の値と遇の用例に、
  
噫弘誓強縁、多生叵'''値'''、真実浄信、億劫叵獲。
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:噫弘誓強縁、多生叵'''値'''、真実浄信、億劫叵獲。
:ああ、弘誓の強縁、多生にも値ひがたく、真実の浄信、億劫にも獲がたし。
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::ああ、弘誓の強縁、多生にも<kana>値(もうあ)</kana>ひがたく、真実の浄信、億劫にも獲がたし。
'''遇'''獲行信、遠慶宿縁。
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:'''遇'''獲行信、遠慶宿縁。
:たまたま行信を獲ば、遠く宿縁を慶べ。([[顕浄土真実教行証文類_(序)#P--132|総序 132]])
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::たまたま[[行信]]を獲ば、遠く宿縁を慶べ。([[顕浄土真実教行証文類_(序)#P--132|総序 132]])
とある。
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とある。なお「会」は「会坐」「会処」「倶会一処」などと熟語するように、人々が一緒に集まってあうことをいふので、阿弥陀仏と私との一対一の関係を示す「逢」「値」「遇」という漢字の意味とは少しく意味が異なる。<br />
  
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御開山は『浄土論』に、
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:観仏本願力 '''遇'''無空過者
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:能令速満足 功徳大宝海
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::仏の本願力を観ずるに、'''遇'''(あ)ひて空しく過ぐるものなし。
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::よくすみやかに功徳の大宝海を満足せしむ。([[浄土論_(七祖)#P--31|浄土論 P.31]])
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とある漢讃の「遇無空過者」の偈の意を[[和讃]]されて、<br />
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:本願力にあひぬれば
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: むなしくすぐるひとぞなき
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: 功徳の宝海みちみちて
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: 煩悩の濁水へだてなし ([[高僧和讃#no13|高僧 P.580]])
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と「まうあふ」を「あひぬれば」とされておられた。本願力に出遇うことで空過(むなしく過ぎる)人生を、功徳の大宝海を満足せしむ生へ転換するのであった。<br />
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『一念多念証文」には、
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:「遇」はまうあふといふ、まうあふと申すは本願力を信ずるなり。([[一多#P--691|一多 P.691]])
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とされていた。
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インクルード ノート
 
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2022年7月22日 (金) 09:06時点における最新版

まうあふ

 あいたてまつる。『一多証文』に「まうあふと申すは、本願力を信ずるなり」とある。(正像 P.608, 一多 P.691, 唯文 P.713)

出典(教学伝道研究センター編『浄土真宗聖典(注釈版)第二版』本願寺出版社
『浄土真宗聖典(注釈版)七祖篇』本願寺出版社

区切り線以下の文章は各投稿者の意見であり本願寺派の見解ではありません。

もう‐あ・う[まうあふ]【参逢・値・遇】(「まいあう」の変化した語)

は、ある所に集まってあう。
は、出逢う、その時節に逢う。
は、チョクと読むときは真っ直ぐにあたることで、チと読むときは、値(あ)う、あたる、あたいするなどの意でぴったり出値(あ)い、いきあたること。
はたまたまとも訓ずるように、途中で予期せずに、ひょっこり遇(あ)うの意。

まうあふは、平安時代の用語として、「まいりあう」という参上してお目にかかるという尊敬語が変化した語。古語の「あふ」には、こちらが相手にあうのではなく、相手がこちらにやってきて出くわすの意。尊い方などにおあいする。あわせていただくの意味がある。御開山の値と遇の用例に、

噫弘誓強縁、多生叵、真実浄信、億劫叵獲。
ああ、弘誓の強縁、多生にも(もうあ)ひがたく、真実の浄信、億劫にも獲がたし。
獲行信、遠慶宿縁。
たまたま行信を獲ば、遠く宿縁を慶べ。(総序 132)

とある。なお「会」は「会坐」「会処」「倶会一処」などと熟語するように、人々が一緒に集まってあうことをいふので、阿弥陀仏と私との一対一の関係を示す「逢」「値」「遇」という漢字の意味とは少しく意味が異なる。

御開山は『浄土論』に、

観仏本願力 無空過者
能令速満足 功徳大宝海
仏の本願力を観ずるに、(あ)ひて空しく過ぐるものなし。
よくすみやかに功徳の大宝海を満足せしむ。(浄土論 P.31)

とある漢讃の「遇無空過者」の偈の意を和讃されて、
(13)

本願力にあひぬれば
 むなしくすぐるひとぞなき
 功徳の宝海みちみちて
 煩悩の濁水へだてなし (高僧 P.580)

と「まうあふ」を「あひぬれば」とされておられた。本願力に出遇うことで空過(むなしく過ぎる)人生を、功徳の大宝海を満足せしむ生へ転換するのであった。
『一念多念証文」には、

「遇」はまうあふといふ、まうあふと申すは本願力を信ずるなり。(一多 P.691)

とされていた。

インクルード ノート

あう(あふ)の同訓異義語

会(會)かい

ある所に集まってあう。

遇 ぐう

途中で予期せずにあう。ひょっこりあう。〔論・陽貨〕 「孔子時其亡也、而往拝之偶諸塗(孔子、其の亡きを時として往きて之を拝す。諸(これ)に塗(みち)に遇う」(陽貨欲見孔子章) 立派な君臣が出あう意などにも用いる。「遇明君

合 ごう

他の諸字と異なり、両方がくいちがわずに、ぴったりと合わさる。符合。

遭 そう

ばったり行きあう。めぐりあう。〔李白・九月十日即事〕「遭此両重陽(此の両重陽に遭ふ)」

値 ちょく

→あたる。〔曹植・求自試表〕「正値陛下升平之際(まさに陛下升平の際に値(あ)い」[1]


逢 ほう

その時節にあう。〔王維・寒食汜上作〕「広武城辺 逢暮春(広武の城辺 暮春に逢ふ)」 
出あう。〔杜甫・江南逢李龜年詩〕「落花時節又逢君」(落花の時節に又君に逢ふ)」(角川 新字源)
  1. 今臣蒙國重恩、三世於今矣。
    正值陛下升平之際、沐浴聖澤、潛潤德教、可謂厚幸矣。
    今、臣は国の重恩を蒙ること、今に三世(武帝曹操、文帝曹丕、明帝曹叡)なり。
    まさに陛下の升平(昇平:天下太平の意)の際に値い聖択に沐浴(恩沢に浴すること)し、徳教に潜潤(道徳・善に感化される)するは厚き幸と謂うべし。