「久遠実成」の版間の差分
出典: 浄土真宗聖典『ウィキアーカイブ(WikiArc)』
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+ | [[法性法身]]とは、さとりそのものである法性<kana>[[真如]](しんにょ)</kana>を本身とする仏身のことで、 | ||
+ | :「そこでは知る者と知られる者が一つであり、生と死、自と他、愛と憎しみ、善と悪といった二元的な対立を完全に超え、時間的・空間的な制約もありませんから、物事を対象的に捉え、分別し区別することを特徴としている言葉では表せない領域です。」(梯實圓著 聖典セミナー『口伝鈔』p.114~) | ||
+ | といわれるように、 | ||
+ | あらゆる限定や時間を超えた人間の認識を超越したものであった。それを『一念多念証文』で、 | ||
+ | {{Inyou| | ||
+ | :この一如宝海よりかたちをあらはして、[[法蔵菩薩]]となのりたまひて、無碍のちかひをおこしたまふをたねとして、阿弥陀仏となりたまふがゆゑに、報身如来と申すなり。これを尽十方無碍光仏となづけたてまつれるなり。この如来を南無不可思議光仏とも申すなり。 | ||
+ | :この如来を[[方便法身]]とは申すなり。方便と申すは、かたちをあらはし、御なをしめして、衆生にしらしめたまふを申すなり。すなはち阿弥陀仏なり。([[一多#P--690|一多 P.690]]) | ||
+ | }} | ||
+ | と、一如宝海(一如法性)より「かたちをあらはし、御なをしめして、衆生にしらしめたまふ」のが[[方便法身]]としての[[報身]]である阿弥陀仏だとされておられる。<br /> | ||
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+ | この二種法身説以前には『法華経』による久遠実成説を「浄土和讃」で、 | ||
:弥陀成仏のこのかたは | :弥陀成仏のこのかたは | ||
::いまに十劫とときたれど | ::いまに十劫とときたれど | ||
− | :: | + | ::[[塵点久遠劫]]よりも |
− | ::ひさしき仏とみえたまふ ([[浄土和讃#P | + | ::ひさしき仏とみえたまふ ([[浄土和讃#no55|浄土 P.556]]) |
− | + | とされたり『諸経讃』に、 | |
+ | :久遠実成阿弥陀仏 | ||
+ | : 五濁の凡愚をあはれみて | ||
+ | : 釈迦牟尼仏としめしてぞ | ||
+ | : [[迦耶城]]には[[応現]]する ([[浄土和讃#no88|浄土 P.572]]) | ||
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+ | と、「[[久遠実成]]」の阿弥陀如来として、かって学んだ天台法華の[[塵点久遠劫]]という『法華経』の語を用いて「如来常住 悉有仏性」という無始無終の大乗仏教の理を示しておられた。<br /> | ||
+ | しかして、最終的には『浄土論註』の法性・方便の二種法身説に拠られたのであった。 | ||
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+ | [[Category:追記]] <p id="page-top">[[#|▲]]</p> |
2024年7月30日 (火) 13:48時点における最新版
御開山の晩年(80~)の仏身・仏土観は『論註』の
- 「そこでは知る者と知られる者が一つであり、生と死、自と他、愛と憎しみ、善と悪といった二元的な対立を完全に超え、時間的・空間的な制約もありませんから、物事を対象的に捉え、分別し区別することを特徴としている言葉では表せない領域です。」(梯實圓著 聖典セミナー『口伝鈔』p.114~)
といわれるように、 あらゆる限定や時間を超えた人間の認識を超越したものであった。それを『一念多念証文』で、
と、一如宝海(一如法性)より「かたちをあらはし、御なをしめして、衆生にしらしめたまふ」のが方便法身としての報身である阿弥陀仏だとされておられる。
この二種法身説以前には『法華経』による久遠実成説を「浄土和讃」で、
とされたり『諸経讃』に、
と、「久遠実成」の阿弥陀如来として、かって学んだ天台法華の塵点久遠劫という『法華経』の語を用いて「如来常住 悉有仏性」という無始無終の大乗仏教の理を示しておられた。