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「次如弥勒」の版間の差分

出典: 浄土真宗聖典『ウィキアーカイブ(WikiArc)』

 
 
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:①「次ついで弥勒のごとしとなり」([[三経往生文類#P--628|三経 P.628]]) 
 
:①「次ついで弥勒のごとしとなり」([[三経往生文類#P--628|三経 P.628]]) 
 
:②「念仏のひとは弥勒(みろく)のごとくほとけになるべしとなり」([[一多#P--680|一多 P.680]]) 
 
:②「念仏のひとは弥勒(みろく)のごとくほとけになるべしとなり」([[一多#P--680|一多 P.680]]) 
:③「次ついで弥勒のごとし」([[二種#P--722|二種 P.722]])
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:③「次ついで弥勒のごとし」([[二種#P--722|二種 P.722]],[[消息上#P--758|御消息 P.758]])
  
 
 「<ruby><rb>次</rb><rp>(</rp><rt>し</rt><rp>)</rp></ruby>」は「ちかし」また「つぎに」と読む。「ちかし」と読む場合は、弥勒菩薩は一生を経れば仏になるが、念仏の行者も今の一生を終れば仏になるから、念仏の行者は仏に近きこと弥勒のごとしということを次如弥勒という。
 
 「<ruby><rb>次</rb><rp>(</rp><rt>し</rt><rp>)</rp></ruby>」は「ちかし」また「つぎに」と読む。「ちかし」と読む場合は、弥勒菩薩は一生を経れば仏になるが、念仏の行者も今の一生を終れば仏になるから、念仏の行者は仏に近きこと弥勒のごとしということを次如弥勒という。
  
「つぎに」と読む場合は、弥勒菩薩は釈尊滅後五十六億七千万年を経てこの世にあらわれ、釈尊に次いで仏になるといわれるが、念仏の行者は次の生に仏になるから、次なること弥勒のごとしということを次如弥勒というのである。→[[弥勒]](みろく)、[[補註6]]。
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「つぎに」と読む場合は、弥勒菩薩は釈尊滅後五十六億七千万年を経てこの世にあらわれ、釈尊に次いで仏になるといわれるが、念仏の行者は次の生に仏になるから、'''次なること弥勒のごとし'''ということを次如弥勒というのである。→[[弥勒]]、[[正定聚]]、[[如来とひとし]]、[[補註6|補註6正定聚]]。
 
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2017年11月27日 (月) 17:12時点における最新版

しにょみろく

【左訓】

①「次ついで弥勒のごとしとなり」(三経 P.628) 
②「念仏のひとは弥勒(みろく)のごとくほとけになるべしとなり」(一多 P.680) 
③「次ついで弥勒のごとし」(二種 P.722,御消息 P.758)

 「()」は「ちかし」また「つぎに」と読む。「ちかし」と読む場合は、弥勒菩薩は一生を経れば仏になるが、念仏の行者も今の一生を終れば仏になるから、念仏の行者は仏に近きこと弥勒のごとしということを次如弥勒という。

「つぎに」と読む場合は、弥勒菩薩は釈尊滅後五十六億七千万年を経てこの世にあらわれ、釈尊に次いで仏になるといわれるが、念仏の行者は次の生に仏になるから、次なること弥勒のごとしということを次如弥勒というのである。→弥勒正定聚如来とひとし補註6正定聚

出典(教学伝道研究センター編『浄土真宗聖典(注釈版)第二版』本願寺出版社
『浄土真宗聖典(注釈版)七祖篇』本願寺出版社

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