「来迎」の版間の差分
出典: 浄土真宗聖典『ウィキアーカイブ(WikiArc)』
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『大経』第<ruby><rb>十九</rb><rp>(</rp><rt>じゅうく</rt><rp>)</rp></ruby>願に誓われ、さらに三輩往生の一段にも説かれる。『観経』では、<ruby><rb>[[九品]]</rb><rp>(</rp><rt>くぼん</rt><rp>)</rp></ruby>往生にそれぞれの来迎の相を説き、また『小経』にも説かれている。 | 『大経』第<ruby><rb>十九</rb><rp>(</rp><rt>じゅうく</rt><rp>)</rp></ruby>願に誓われ、さらに三輩往生の一段にも説かれる。『観経』では、<ruby><rb>[[九品]]</rb><rp>(</rp><rt>くぼん</rt><rp>)</rp></ruby>往生にそれぞれの来迎の相を説き、また『小経』にも説かれている。 | ||
− | 浄土真宗では、平生聞信の一念に往生の業因が成就する(<ruby><rb>[[平生業成]]</rb><rp>(</rp><rt>へいぜいごうじょう</rt><rp>)</rp></ruby>)から臨終来迎を期することはない、臨終来迎を期するのは[[諸行往生]]、[[自力]]の行者であるとし、臨終の来迎をたのみにすることを否定する(不来迎)。また、来迎の意味を転じて、他力念仏の人が信心<ruby><rb>獲得</rb><rp>(</rp><rt>ぎゃくとく</rt><rp>)</rp></ruby>より浄土往生の時まで、常に仏・菩薩の来迎にあずかり護念されるという阿弥陀仏の[[摂取]]の<ruby><rb>利益</rb><rp>(</rp><rt>りやく</rt><rp>)</rp></ruby>のこととして説かれることもある。 | + | 浄土真宗では、平生聞信の一念に往生の業因が成就する(<ruby><rb>[[平生業成]]</rb><rp>(</rp><rt>へいぜいごうじょう</rt><rp>)</rp></ruby>)から臨終来迎を期することはない、臨終来迎を期するのは[[諸行往生]]、[[自力]]の行者であるとし、臨終の来迎をたのみにすることを否定する(不来迎)。また、来迎の意味を転じて、他力念仏の人が信心<ruby><rb>獲得</rb><rp>(</rp><rt>ぎゃくとく</rt><rp>)</rp></ruby>より浄土往生の時まで、常に仏・菩薩の来迎にあずかり護念されるという阿弥陀仏の[[摂取]]の<ruby><rb>利益</rb><rp>(</rp><rt>りやく</rt><rp>)</rp></ruby>のこととして説かれることもある。 ([[真要鈔#P--966|真要鈔 P.966]]) |
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2008年1月12日 (土) 19:43時点における版
らいこう
浄土に往生したいと願う人の臨終に、阿弥陀仏が菩薩、
『大経』第
浄土真宗では、平生聞信の一念に往生の業因が成就する(
出典(教学伝道研究センター編『浄土真宗聖典(注釈版)第二版』本願寺出版社
『浄土真宗聖典(注釈版)七祖篇』本願寺出版社
区切り線以下の文章は各投稿者の意見であり本願寺派の見解ではありません。
『浄土真宗聖典(注釈版)七祖篇』本願寺出版社
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