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「他力」の版間の差分

出典: 浄土真宗聖典『ウィキアーカイブ(WikiArc)』

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たりき
  
 
 [[阿弥陀仏]]の[[本願力]]。阿弥陀仏が<ruby><rb>[[衆生]]</rb><rp>(</rp><rt>しゅじょう</rt><rp>)</rp></ruby>を救済するはたらき。→[[自力]](じりき)、[[補註12]]。
 
 [[阿弥陀仏]]の[[本願力]]。阿弥陀仏が<ruby><rb>[[衆生]]</rb><rp>(</rp><rt>しゅじょう</rt><rp>)</rp></ruby>を救済するはたらき。→[[自力]](じりき)、[[補註12]]。

2005年10月28日 (金) 14:04時点における版

たりき

 阿弥陀仏本願力。阿弥陀仏が衆生(しゅじょう)を救済するはたらき。→自力(じりき)、補註12

出典(教学伝道研究センター編『浄土真宗聖典(注釈版)第二版』本願寺出版社
『浄土真宗聖典(注釈版)七祖篇』本願寺出版社

区切り線以下の文章は各投稿者の意見であり本願寺派の見解ではありません。

阿弥陀仏がであり衆生はである事。この場合、他とは衆生を指すのであり、(衆生)を救済するはたらきをという。
つまり、他力の他とは我々の事であり決して自己を中心として文節する言葉ではないのである。 将談仏力 まさに仏力を談じているのである。

正しい他力本願の意味

Tariki.jpg

言葉は長い間使われているうちに意味の拡散が起こり、本来の意味とはかけ離れた意味で使用されることがあります。浄土真宗で阿弥陀如来の救済力をあらわす他力本願という用語もこのような言葉の一つです。

本来的には他力という言葉は、主体(仏:救済する者)と客体(衆生:救済される者)を自と他に分け、仏である自から衆生を他とした言葉です。

である阿弥陀如来の救済力が、如来からみてである衆生を救済し続ける本願力を他力と表現したのです。阿弥陀如来を中心とした秩序のある世界観を表わす言葉だったわけです。

他力の他は私たち衆生なのです。自他が逆転しているのです。仏から汝と喚(よ)び続けられる存在が他なのです。このような意味で親鸞聖人は「他力というは如来の本願力なり」と仰られたのです。