操作

トーク

他力

出典: 浄土真宗聖典『ウィキアーカイブ(WikiArc)』

インクルード 他利利他の深義

たり-りたのじんぎ

 「行巻」一九二頁九行(行巻 P.192)以下の本文および同頁の脚注参照。 (証巻 P.335,浄文 P.484, 二門 P.548)
【行巻の脚注】

他利と利他 たりとりた

 如来の救済を衆生からいえば他(如来)が利すといい、仏からいえば他(衆生)を利すという。ここでは仏の方から語るので利他というと釈されたのである。(行巻 P.192)

出典(教学伝道研究センター編『浄土真宗聖典(注釈版)第二版』本願寺出版社
『浄土真宗聖典(注釈版)七祖篇』本願寺出版社

区切り線以下の文章は各投稿者の意見であり本願寺派の見解ではありません。

たり-りたの-じんぎ 他利利他の深義

 曇鸞が『論註』覈求其本釈において、他利利他との語義の違いを示すことによって、阿弥陀仏他力の意義を明らかにしたこと。他利とは衆生にとって他者である仏に利益されること、利他とは仏にとって他者である衆生利益することで、仏の救済について、利益される衆生の立場 (他利) で述べるか、利益する仏の立場 (利他) で述べるかの違いをいう。これを親鸞は 「証巻」 に

「宗師は大悲往還の回向を顕示して、ねんごろに他利利他の深義を弘宣したまへり」(証巻 P.335)

と示している。(浄土真宗辞典)

今将談仏力(いままさに仏力を談ぜんとす)

親鸞聖人は『証巻』の末尾で次のように「他利・利他の深義(じんぎ)」ということを仰るのだが一切の解説がない。

「宗師(曇鸞)は大悲 往還の回向を顕示して、ねんごろに他利利他の深義を弘宣したまへり。仰いで奉持すべし、ことに頂戴すべしと。」(証巻 P.335)

この他利利他の語は『浄土論註』の「覈求其本釈(かくぐごほんしゃく)」(まことにその本を求むればの釈) [1]からの引文である。
天親菩薩の『浄土論』では、五念門の成就を、

また五種の門ありて漸次に五種の功徳を成就す、知るべし。(浄土論 P.41)

と、漸次に五念門を修して五種の功徳を成就するとされている。しかし、『浄土論』の結論では、

菩薩はかくのごとく五門の行を修して自利利他す。速やか阿耨多羅三藐三菩提を成就することを得るゆゑなり。 (浄土論 P.42)

と、速やかに阿耨多羅三藐三菩提を成就することを得とされる。この〈漸次〉と〈速やか〉の違いを考察されたのが曇鸞大師の覈求其本釈であった。
 曇鸞大師は『浄土論註』の冒頭で、すでに釈尊が入滅されて仏陀の存在しない無仏の時代に悟りを得る困難を五つ挙げられ結論として、

一には外道の相善菩薩の法を乱る。
二には声聞は自利にして大慈悲を障ふ。
三には無顧の悪人は他の勝徳を破る。
四には顛倒の善果はよく梵行を壊つ。
五にはただこれ自力にして他力の持(たも)つなし。
かくのごとき等の事、目に触るるにみなこれなり。たとへば陸路の歩行はすなはち苦しきがごとし。「易行道」とは、いはく、ただ信仏の因縁をもつて浄土に生ぜんと願ずれば、仏願力に乗じて、すなはちかの清浄の土に往生を得、仏力住持して、すなはち大乗正定の聚に入る。(論註 P.47)

仏力住持の他力を釈された。龍樹菩薩の『十住毘婆沙論』の難行道易行道という名目を、難行道を自力、易行道を他力と対判にすることよって、自力であるならば漸次であるが利他力である仏願力に乗ずれば速やかに仏果を得ることが出来る、と次の覈求其本釈をあらわされたのであった。

問ひていはく、なんの因縁ありてか「速やかに阿耨多羅三藐三菩提を成就することを得」といへる。
答へていはく、『論』(浄土論)に「五門の行を修して、自利利他成就するをもつてのゆゑなり」といへり。
しかるに(まこと)に其の本を求むるに、阿弥陀如来を増上縁となす。他利と利他と、談ずるに左右あり。もし仏よりしていはば、よろしく利他といふべし。衆生よりしていはば、よろしく他利といふべし。いままさに仏力を談ぜんとす。このゆゑに「利他」をもつてこれをいふ。
まさにこの意を知るべし。おほよそこれかの浄土に生ずると、およびかの菩薩・人・天の所起の諸行とは、みな阿弥陀如来の本願力によるがゆゑなり。(論註 P.155) →覈求其本釈

と、仏力(阿弥陀如来の本願力)を談じられた。
本来、他利と利他は同義語であって意味に違いはない筈なのだが、曇鸞大師は「談ずるに左右あり」と言われる。 この談ずるに左右ありの解釈に古来から和上方が苦心されてきたところで「他利と利他と、談ずるに左右あり」は一体なにを意味しているかの考察である。

これは親鸞聖人の「他力=利他力=阿弥陀如来の本願力」という思想の根幹になるもので、古来から各種の説が論じられてきた。 今、ここでは梯實圓和上の論文から一部を抜粋してその意を窺ってみよう。

親鸞聖人の他力観(p17)梯實圓和上
私は、他利とは他なる仏に衆生が利益されることをいい、利他とは仏が他なる衆生を利益することをいうとする『論註翼解』の説を採用したいと思う。
従来同義語として用いられていた他利と利他とを「談ずるに左右あり」といわれたのは、仏力成就の五念 *という特別の義意を表すためであった。
それにしてもこのように左右を見ることができたのは、「利」を動詞と見て、それを中心に、「他利」は「他利自(他が自を利す)」の「自」という目的語を省略した語であり、「利他」は、「自利他(自が他を利す)」の主語の「自」を省略した語型と見られたからではなかろうか。
したがって他利は他者である阿弥陀仏が、衆生、すなわち私を利益するという状況を表現する言葉になる。この場合は救済される者を「自」すなわち「我」とし、救済する如来を「他」すなわち「汝」と見ていることになるから、「衆生よりしていはば宜しく他利といふべし」ということになる.
それにひきかえ利他は自者である如来が他なる衆生を救済するという状況を表現する言葉になる。
この場合は救済する者を「自」というから如来が「我」であり、救済される衆生は他者すなわち「汝」と見ての発言になる。
それが「仏よりしていはぱ宜しく利他といふべし」といわれた意味であろう。
仏の救済活動を仏の側、すなわち法の側から表すには「我よく汝を救う」と、仏を「我」として衆生を「汝」と呼ぶ表現である「利他」がふさわしいから、「いままさに仏力を談ぜんとす、このゆゑに利他をもつてこれをいふ」といわれたのである。
利他は法の側から仏力を談ずる言葉であるというのである。
後に親鸞聖人が本願力回向を表すのに利他という表現を多く用いられたのはその故である。

「今将談仏力(いままさに仏力を談ぜん)」であるから、阿弥陀仏の本願力を阿弥陀仏の側からあらわしているとされたのである。

他利:他利(自) 「他が自を利す」他である仏(他)が、自である我(自)を利益する。

他利 他利自 (他が自を利す) 無義為義 →約生

利他:(自)利他 「自が他を利す」 自である仏(自)が、他である我(他)を利益する。

利他 自 (自が他を利す)無作の義 →約仏

つまり、如来の衆生済度を衆生の側からいえば他(如来)が我を利すといい、仏の側からいえば仏が他である汝を利すという。ここでは、いままさに仏の方から仏力を談ずる(今将談仏力)ので他利ではなく利他といわれたと親鸞聖人は見られたのである。
この指示によって『浄土論』で説かれている五念門行は行者が修するのではなく、阿弥陀如来の本願力のはたらきをあらわしているのだとみられたのであった。
ゆえに『論註』の
「五門の行を修して、自利利他成就するをもつてのゆゑなり」(論註 P.155) を「五門の行を修してもつて自利利他成就したまへるがゆゑに」(行巻 P.192) と敬語で訓じておられた。
『浄土論』には他利という語は一語も用いられていない。それを曇鸞大師があえて他利という言葉を使い、利他という言葉と対判された意の深い意味をくみとられたのが親鸞聖人であった。この「覈求其本釈」によって『浄土論』は阿弥陀仏の本願力回向(利他)をあらわす書となったのである。これが「他利利他の深義」であった。この本願力による衆生済度力用(誓願一仏乗) を御開山は他力(利他)というのである。
浄土門で他力という言葉は知られていたが、それはあくまで自己を主体として仏力を解釈するのが標準的な解釈であった。 しかし親鸞聖人は、この曇鸞大師の示される「他利利他」の語によって、主体の転換、いわばコペルニクス的主体の大転換が説かれていることを発見されたのであった。それは、穢土と浄土という二元対立する世界を包み込んでいく往相還相という本願力の躍動する世界であった。知性と実践という人間の思慮分別の思議の世界観から、阿弥陀仏の本願力による大悲大智のはたらく仏智不思議の世界観への転換であった[2]。この感動が天親の親と曇鸞の鸞の一字を採り「親鸞」と名乗る動機だったのである。[3]

さて、親鸞聖人は、利他深広の信楽、利他真実、利他の真心、利他回向の至心、利他真実の信心、利他真実の欲生心、利他の信海、利他円満の妙位、利他の一心などなど利他という言葉を使われている。この利他とは、他者に功徳・利益を施して救済し仏に成らしめることをいい、阿弥陀仏の側からの救いの働きである本願力をいう。

これを親鸞聖人は、

他力といふは如来の本願力なり。(行巻「他力釈」P.190

と仰ったのである。他なる衆生を済度するのが如来の本願力なのであった。他が自を救済する意味で他力と仰ったのではない。[4]

親鸞聖人は『愚禿鈔』の「二河譬」で阿弥陀如来の招喚を、

「また、西の岸の上に、人ありて喚ばうていはく、〈一心正念にして直ちに来れ、能く護らん〉」
「西の岸の上に、人ありて喚ばうていはく」といふは、阿弥陀如来の誓願なり。
「汝」の言は行者なり、これすなはち必定の菩薩と名づく。
{─中略─}
「我」の言は、尽十方無礙光如来なり、不可思議光仏なり。(愚禿鈔 P.538)

と釈され、「汝」の言は行者なり、とされ、「我」の言は、尽十方無礙光如来なり、不可思議光仏なり、と仰るのもこのような阿弥陀仏の本願力による衆生への回向の世界をあらわしておられるのである。いわば、如来から他である汝として呼びかけられる自己の発見であった。

他力という言葉が、他者依存のような意味で用いられているが、本来の他力という言葉の意味は、一方的に衆生を済度しつつある阿弥陀如来の利他力(本願力)を阿弥陀如来の側から表現した言葉である。→「全分他力
なお、『浄土論註』では、この覈求其本釈の次に「速やか」であることの本願力の証明を、第十八願(至心信楽の願)、第十一願(必至滅度の願)、第二十二願(還相回向の願)によってなされている。これを三願的証(さんがん-てきしょう)という。 →三願的証

全分他力
利他
三願的証

脚註

  1. 覈求其本釈(かくぐ-ごほんし-ゃく)。◇《覈》は〈まことに〉、〈あきらかに〉、〈しらべる〉、と読み。おおわれている事実をしらべ明らかにする意がある。《求》は推求という意。《其》は『浄土論』の「五門の行を修して自利利他す」の五念門成就を指す。《本》は本源の意。《釈》は解釈の意である。よって「覈求其本釈」とは、自利利他を速やかに成就する因を推察し明らかにする解釈ということ。
  2. 田村芳朗氏は、このような穢土と浄土という二元を包みこむ本願の世界観を「相対の上の絶対」と考察していた。→絶対の真理
  3. 御開山は、新しい心の視野が開けると名前を変えられる。叡山時代の「範宴」という名を法然門下に入ると、聖浄二門判によって浄土門をあかされた道綽の綽と、師の源空の空の一字を採り「綽空」と名乗られた。また、善導、源信の教学を自分のものにされた時、各々の一字によって「善信」と名乗られたのであろう。そして、この祖師方の教学をすっぽりと包み込む、天親菩薩の『浄土論』、曇鸞大師の『浄土論註』が描く本願力の世界に出あわれて、「親鸞」と名乗られるようになったのである。改名によって信に死して願に生きる、新しい自己の誕生という意図があったのであろう。
  4. もちろん御開山も他力という言葉で、我に如-来する阿弥陀如来を語る場合も多い。しかしここで「他力といふは如来の本願力なり。」(行巻 P.190)とされているのは阿弥陀仏を主体とし衆生を客体とするのであり、これが他力という語の本義である。



さて、仏力を談ずである。

浄土真宗というご法義の枠内におりながら、信心を頂いたとか頂かないとか、助かったとか助からないとか、それは何時であるかなどと論じる輩がいる。 これを昔から越前では、乞食信心とか約生地獄とか言い、「他力の中の自力とは、いつも御恩が喜べてびくとも動かぬ信心が、私の腹にあるという、凡夫の力みを申すなり」と揶揄してきた。

他力といふは如来の本願力であり、全く如来のひとりばたらきを他力というのであって、凡夫の側の造作が入るならそれは真実ではない。

親鸞聖人が真実ということの根拠とされたといわれる『浄土論註』の真実功徳相釈に、

「真実功徳相」とは、二種の功徳あり。一には有漏の心より生じて法性に順ぜず。いはゆる凡夫人天の諸善、人天の果報、もしは因もしは果、みなこれ顛倒、みなこれ虚偽なり。このゆゑに不実の功徳と名づく。
二には菩薩の智慧清浄の業より起りて仏事を荘厳す。法性によりて清浄の相に入る。この法顛倒せず、虚偽ならず。名づけて真実功徳となす。いかんが顛倒せざる。法性によりて二諦に順ずるがゆゑなり。いかんが虚偽ならざる。衆生を摂して畢竟浄に入らしむるがゆゑなり。(論註 P.57)

とあり、凡夫人天のなす諸善は全て顛倒であり虚偽で不実であり、菩薩(法蔵菩薩)の智慧清浄の業より起こされたものこそが真実であるといわれている。四十八願によって建立された清浄願心の荘厳は、法蔵菩薩の因浄なるがゆゑに果浄なる真実の浄土だからである。

それでは一切の手がかりが無いではないかと言われるであろうが、私を中心とした世界観で物を分別している限り、微塵劫を超過すれども判らないであろう。 何故か、浄土真宗は、私が助かる事を聞くのではなく、私を助ける法を聞くご法義だからである。阿弥陀如来の本願力回向のご法義なのである。 これが「仏願の生起本末を聞く」という事である。

私はいま、如来の救済の真っ只中におりながら、私の救済を求め、ありもしない信心を追い求める事を疑心というのである。

「しかるに『経』(大経・下)に「聞」といふは、衆生、仏願の生起本末を聞きて疑心あることなし、これを聞といふなり。「信心」といふは、すなはち本願力回向の信心なり。」(信巻 P.251)

聞くとは、如来の本願を疑いなく聞いている状態を「聞く」という。疑いながら聞いているのではない、疑いなく計らいなく聞いている状態を「聞く」というのである。ここは信によって聞の意味を解釈しているのである。私のために起こして下さった本願が私に向かって「必ず助けるぞ」と呼びかけていて下さる、それを聞いていることが信心であるというのである。
疑心あることなし、とは無い状態を言うのであって、私に信心という物柄が有るのではない。「信心といふは、すなはち本願力回向の信心なり」、であるからである。 私が助かるか助からないかは如来が心配して下さる事であって、私が心配することではないのである。私が助けられる法を聞く事が、まさに仏力を談ずることである。

月影のいたらぬ里はなけれども、蓋ある水に影はやどさじ

という法然聖人の本歌取りの歌があるが、私が、という想いの蓋を取り除けば、皎々(こうこう)と御信心の月は照って下さるのである。