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「あびばっち」の版間の差分

出典: 浄土真宗聖典『ウィキアーカイブ(WikiArc)』

 
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 【左訓】「ほとけになるべき身となるとなり」([[一多#P--680|一多 P.680]])
 
 【左訓】「ほとけになるべき身となるとなり」([[一多#P--680|一多 P.680]])
  
 梵語アヴァイヴァルティカ(avaivartika)またアヴィニヴァルタニーヤ(avinivartanīya)の音写。<ruby><rb>阿惟越致</rb><rp>(</rp><rt>あゆいおっち</rt><rp>)</rp></ruby>ともいい、無退・不退・不退転と漢訳する。退かないの意。([[小経#P--124|小経 P.124]])
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 梵語アヴァイヴァルティカ(avaivartika)またアヴィニヴァルタニーヤ(avinivartanīya)の音写。<kana>阿惟越致(あゆいおっち)</kana>ともいい、無退・不退・不退転と漢訳する。退かないの意。([[小経#P--124|小経 P.124]])<br />
 
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すでに得たさとりや<kana>[[功徳]](くどく)</kana>、地位を決して失わないこと。[[菩薩]]の修道が進んで[[仏]]になることが定まり、再び[[悪趣]]や[[二乗]](<kana>[[声聞]](しょうもん)</kana>・<kana>[[縁覚]](えんがく)</kana>)や[[凡夫]]の位に退歩したり、さとったところの菩薩の地位や法を失わないこと、またその位をいう。
すでに得たさとりや<ruby><rb>[[功徳]]</rb><rp>(</rp><rt>くどく</rt><rp>)</rp></ruby>、地位を決して失わないこと。[[菩薩]]の修道が進んで[[仏]]になることが定まり、再び[[悪趣]]や[[二乗]](<ruby><rb>[[声聞]]</rb><rp>(</rp><rt>しょうもん</rt><rp>)</rp></ruby>・<ruby><rb>[[縁覚]]</rb><rp>(</rp><rt>えんがく</rt><rp>)</rp></ruby>)や[[凡夫]]の位に退歩したり、さとったところの菩薩の地位や法を失わないこと、またその位をいう。
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浄土真宗では[[他力]] 信心を得たものはこの世において<kana>[[正定聚]](しょうじょうじゅ)</kana><kana>[[不退]](ふたい)</kana>の位につき、必ず仏果(仏のさとり)に至ることに定まることをいう。
 
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浄土真宗では[[他力]] 信心を得たものはこの世において<ruby><rb>[[正定聚]]</rb><rp>(</rp><rt>しょうじょうじゅ</rt><rp>)</rp></ruby><ruby><rb>[[不退]]</rb><rp>(</rp><rt>ふたい</rt><rp>)</rp></ruby>の位につき、必ず仏果(仏のさとり)に至ることに定まることをいう。
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2017年10月25日 (水) 16:38時点における版

阿毘跋致

 【左訓】「ほとけになるべき身となるとなり」(一多 P.680)

 梵語アヴァイヴァルティカ(avaivartika)またアヴィニヴァルタニーヤ(avinivartanīya)の音写。阿惟越致(あゆいおっち)ともいい、無退・不退・不退転と漢訳する。退かないの意。(小経 P.124)
すでに得たさとりや功徳(くどく)、地位を決して失わないこと。菩薩の修道が進んでになることが定まり、再び悪趣二乗声聞(しょうもん)縁覚(えんがく))や凡夫の位に退歩したり、さとったところの菩薩の地位や法を失わないこと、またその位をいう。 浄土真宗では他力 信心を得たものはこの世において正定聚(しょうじょうじゅ)不退(ふたい)の位につき、必ず仏果(仏のさとり)に至ることに定まることをいう。

出典(教学伝道研究センター編『浄土真宗聖典(注釈版)第二版』本願寺出版社
『浄土真宗聖典(注釈版)七祖篇』本願寺出版社

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