「安心論題/平生業生」の版間の差分
出典: 浄土真宗聖典『ウィキアーカイブ(WikiArc)』
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2018年6月23日 (土) 04:54時点における版
(24)平生業成
一
およそ往生浄土門の法にあっては、臨終に心をとり乱さず、正念に住することによって、浄土の往生をとげることがができるというのが、通常の考え方であるといえましょう。
ところが、浄土真宗は臨終に善し悪しを問題とせず、平生、聞信の一念に往生の業因は成就するという宗旨であります。これを蓮如上人は「平生(へいぜい)業成(ごうじょう)」と仰せられました。この平生業成という言葉はすでに覚如・存覚両師の上にも示されてあり、もと宗祖親鸞聖人の「即得往生住不退転」(本願成就文)の釈義を承けて示されたものであります。そして、この平生業成ということは、浄土門下の他流とは異なる、真宗の特色の一つであります。今はその義についてうかがいます。
二
蓮如上人の『御文章』一帖目第二通に(真聖全三―四〇四)、
- 当流、親鸞聖人の一義は……この信をえたる位を、『経』(大経の本願成就文)には「即得往生住不退転」ととき、『釈』(論註の意)には「一念発起入正定之聚」ともいえり。これすなはち不来迎の談、平生業成の義なり。(*)
同じく一帖目第四通には(真聖全三―四〇六)、
- おおよそ当家には一念発起平生業成と談じて、平生に弥陀如来の本願の我等をたすけたもうことわりをききひらくことは……仏智他力のさずけによりて本願の由来を存知するものなりとこころうるが、すなわち平生業成の義なり。(*)
等と述べられています。このほか二帖目第十通(真聖全三―四四〇)、四帖目第十三通(三―四九六)、五帖目第二十一通(三―五一六)などにも示されてあります。
なお、覚如上人の『改邪鈔』に、他派の者が、「名帳」を作って祖師の一流を乱す旨を述べて(真聖全三―六四)、
- もし「即得往生住不退転」等の経文をもって平生業成の他力の心行獲得の時剋をききたがえて、名帳勘録の時分にあたりて往生浄土の正業治定するなんどばし、ききあやまれるにやあらん。(*)
等と仰せられ、存覚師の『浄土真要鈔』にも(真聖全三―一二三)、
- 親鸞聖人の一流においては、平生業成の義にして臨終往生ののぞみを本とせず、不来迎の談にして来迎の義を執ぜず。(*)
等と述べられています。
三
「平生」とは臨終に対する語で、つねに日ごろという意味。「業成」とは業事成弁とか業因成就という意味で、往生の業因が行者の上に成就することであります。
臨終になり、仏の来迎を得ることによって往生が決まる(臨終業成)というのに対して、平生業成とは、つね日ごろ仏法を聞信したときに往生は決定するというのであります。
すでに(23)「即得往生」の論題で窺った通り、宗祖は本願成就文の「即得往生住不退転」は、名号を聞信した一念に正定聚不退の身にしていただくことであるという旨を明らかにしてくださいました。そのことは龍樹菩薩の『易行品』にも本願成就文の意味を示して(真聖全二―一二引用)、
- 人よくこの仏の 無量力功徳を念ずれば 即時に必定に入る (*)
と述べられ、宗祖はこれを『正信偈』に(真聖全二―四四)、
- 弥陀の本願を憶念すれば 自然に即のとき必定に入る (*)
と讃詠されています。阿弥陀仏の本願を信受すれば、仏力によって直ちに、必ず仏となるべき身に定まる、と仰せられるのです。
真宗は阿弥陀如来の名号願力をもって往生の業因としますから、これを信受したときその人の往生は決定します。したがって平生の聞信こそ肝要であって、臨終の善し悪しは問題としません。
これに対して、第十九願の諸行往生の法は、自己の一生涯積んだ善根功徳をもって往生の業因としますから、臨終に仏の来迎があって、はじめて往生が決定します。つまり、臨終における来迎の有無によって、往生を得るか否かが決まるのであります。
第二十願の自力念仏の法は、諸行を捨てて専ら称名念仏するのですが、その心は第十九願と同じく自力ですから、やはり臨終を期し来迎をたのみにするものであります。
四
浄土門下の他流と真宗との相異を明らかにするためには、第十八・第十九・第二十の三願に対する見方のちがいについて窺わねばなりません。
いずれの派にあっても、第十八の念仏往生の願を根本とする点では同じですが、第十九願・第二十願の見方は大きく違っています。
他派にあっては、第十九願は臨終来迎を誓われたもので、念仏行者の臨終に仏が迎えにきてくださることとし、第二十願は果遂の誓いで、浄土往生を願う者には必ずその願いを果たし遂げさせてくださることと見ます。つまり、この三願は別々の法ではなくて、第十九願の来迎も第二十願の果遂も、第十八の利益を示されたものと見るのです。だから、第十八の行者は臨終に来迎を受け、必ず往生の願いが果たしとげられる。逆にいえば、臨終に来迎がなければ往生はできないということになります。それで、臨終を期し来迎をたのみにするのであります。
宗祖聖人は、右の三願をそれぞれ別の法を誓われたものと見られます。それは三願それぞれに行信に因が示されてあり、またそれぞれの果が示されているからであります。そして、第十八願は仏の本意を示された他力念仏の法であり、第十九願・第二十願の法は、直ちに第十八願の法に入ることのできない者を誘引するために誓われた方便の法であると見られるのです。
すなわち、第十八願の他力の救いを受けいれない者のために、聖道門と同じ諸善万行を修して往生したいと願うならば、臨終に迎えとろうというのが第十九願の諸行往生の法であり、自己の積む諸善よりも念仏の功徳が大きいと知って、一生懸命にお念仏を称えて往生したいと願うならば、その願いを必ず果たし遂げさせようというのが第二十願の自力念仏の法であります。
この第二十願には来迎は誓われていませんが、第二十願の法を開設した『阿弥陀経』には臨終来迎が説かれていますので、第十九願と同じく、臨終を期し来迎を待って、往生が定まるという法であります。
これに対して、第十八願の法は平生聞信の一念に往生の業因は成就し、摂取不捨の益をこうむって、正定聚不退の身にならせていただくのですから、臨終は問題ではなく、来迎を待つこともありません。『末灯鈔』に(真聖全二―六五六)、
- 来迎は諸行往生にあり、自力の行者なるがゆえに。臨終ということは、諸行往生のひとにいうべし、いまだ真実の信心をえざるがゆえなり。……真実信心の行人は、摂取不捨のゆえに正定聚のくらいに住す。このゆえに臨終まつことなし、来迎たのむことなし。信心のさだまるとき、往生またさだまるなり。(*)
等と仰せられています。右の文の「摂取不捨」というのは、『観経』の第九真身観に(真聖全一―五七)、
- 一一の光明はあまねく十方世界を照らし、念仏の衆生を摂取して捨てたまわず。 (*)
と説かれているもので、第十八願の念仏行者を摂めとって決して見捨てることはないという意味であります。このことは法然上人の『和語燈録』にも(真聖全四―五九六)、
- 問うていわく、摂取の益をこうむる事は平生か臨終か、いかん。答えていわく、平生の時なり。(*)
と述べられています。宗祖の示される平生業成の意味は既にその師法然上人の上にあったわけで、宗祖は法然上人の本意を相承されているということが知られます。
五
右のような宗祖の釈義を承けて、これを「平生業成」という言葉を用いてあらわされたのは覚如上人であります。出拠のところに出した『改邪鈔』の文は、「名帳」に名を記帳することによって往生が決定するのではなく、他力の信心をいただいたとき往生は決定するのであるということで、平生業成といわれたのですが、臨終業成に対して平生業成という意味を明示されているのは、『口伝鈔』の「体失・不体失往生の事」でありましょう。その文には(真聖全三―二三)、
- 念仏往生は仏の本願なり、諸行往生は本願にあらず。念仏往生には、臨終の善悪を沙汰せず、至心信楽の帰命の一心、他力よりさだまるとき、即得往生住不退転の道理を善知識にあうて聞持する平生のきざみに治定するあいだ、この穢体亡失せずといえども、業事成弁すれば体失せずして往生すといわるるか。……諸行往生の機は臨終を期し来迎をまちえずしては、胎生辺地までも生るべからず。このゆえにこの穢体亡失するときならではその期するところなきによりて、そのむねをのぶるか。第十九の願にみえたり。(*)
等と述べられています。諸行往生は第十九願の意であって臨終業成、念仏往生は本願(第十八願)の意であって平生業成であると仰せられるのです。平生業成の法にあっては、臨終を待ち来迎をたのみにする必要はありません。
知らない所へ行く場合、駅まで迎えに出ますといわれても、その駅までは自分で行かねばなりません。駅で迎えの人に会うまでは安心できません。ところが、先方の人が車で自宅まで迎えに来てくださった場合はどうでしょう。駅での出迎えのあるなしなど問題ではありません。第十八願の法は平生聞信の一念に如来の懐にいだきとられ、弘誓の船に乗せていただくのですから、臨終の善し悪しは問題ではありません。臨終を待ち来迎をたのみにするのは、まだ弘誓の船に乗っていない人の話です。
私どもはご法義を喜ばせていただいていても、事故で急死することもあれば、病苦にあえぎながら死ぬかもしれません。あるいは老衰の果てに痴呆になって死なねばならないかもしれません。臨終がどうあろうと心配する必要はなく、一日一日を安らかに生きてゆけるのは、平生業成の法なればこそであります。
蓮如上人は、宗祖の「即得往生住不退転」の釈義を承け、また覚如・存覚両師の説を相承して、この平生業成ということを繰りかえし徹底してお示しくださったのであります。
『やさしい 安心論題の話』(灘本愛慈著)p260~
脚注