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安心論題/二種深信

出典: 浄土真宗聖典『ウィキアーカイブ(WikiArc)』

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安心論題の話

はじめに
(1)聞信義相
(2)三心一心
(3)信願交際
(4)歓喜初後
(5)二種深信
(6)信疑決判
(7)信心正因
(8)信一念義
(9)帰命義趣
(10)タノム 
(11)所帰人法
(12)機法一体
(13)仏凡一体
(14)五重義相
(15)十念誓意
(16)六字釈義
(17)正定業義
(18)彼此三業
(19)念仏為本
(20)必具名号
(21)行一念義
(22)称名報恩
(23)即得往生
(24)平生業生
(25)正定滅度
おわりに

(5)二種深信

およそ、どのような宗教であっても、「信心」ということを重要としない宗教はないと思います。 しかし、言葉は同じ「信心」でも、その意味内容はそれぞれの宗教によって、一様ではありません。

 浄土真宗は、南無阿弥陀仏の名号のいわれをお聞かせいただくことによっておこさしめられる信心一つで救われるのであって、他の宗教や宗派でいわれている「信仰」や「信心」と、その性格が異なります。このような真宗の信心の特異性を明確にあらわされるのが「二種深信(にしゅじんしん)」であるといえましょう。

 それだけに、またこの二種深信の理解については、さまざまな問題をはらんでいます。古来、信心に関する異解(いげ)異安心(いあんじん)といわれるものの多くは、この二種深信の理解の相違から生じたものであるといっても過言ではありません。

『観無量寿経』に(真聖全一ー六○]、

一つには至誠心、二つには深心、三つには廻向発願心なり。三心を具する者は必ず彼の国に生ず。(*)

と説かれています。この三心について、善導大師は『散善義』にくわしい解釈をされています。その「深心」の解釈に(真聖全]ー五三四)、

深心というはすなわちこれ深信の心なり。また二種あり。
一つには、決定して深く、自身は現にこれ罪悪(ざいあく)生死(しょうじ)の凡夫、曠劫よりこのかた常に没し常に流転して、出離の縁あることなしと信ず。
二つには、決定して深く、かの阿弥陀仏の四十八願は衆生を摂受して、疑いなく(おもんぱか)りなく、かの願力に乗じて、定んで往生をうと信ず。(*)

とあります。はじめに、「深心というは深信 (深く信ずる) の心なり」というのは、『大無量寿経』の第十八願成就文に、「聞其名号信心歓喜」とある「信心」をもって、『観経』の「深信」を解釈されたものであります。したがって、次に示される二種深信は、他力真実の信心のすがたを機と法の二種に開いてあらわされたものとしられます。ゆえに宗祖聖人は『二巻鈔』に、右の二種深信の文をあげられて(真聖全ニーー四六七)、

いまこの深信は、他力至極の金剛心、一乗旡上の真実信海なり。(*)

と仰せられています。

 「一つには自身は現にこれ」等というのは、救われる私ども()について示されますから機の深信、略して信機といわれ、「二つにはかの阿弥陀仏の四十八願は」等というのは、その機を救う法について示されますから法の深信、略して信法といわれます。そしてこの機と法について、それぞれ「決定して深く……信ず」とありますから、二種深信といわれます。

 機の深信の中、「自身は現にこれ罪悪生死の凡夫」というのは現在の私のすがたで、罪悪 (迷いの因) 生死 (迷いの果) の凡夫であるという。「曠劫よりこのかた」等とは私の過去のすがたで、始めなき大昔から、いつも悪道に沈み (常没(じょうもつ))、迷界をへめぐってきた(常流転(じょうるてん))という。「出離の縁あることなし」とは、迷界を出る手がかりがないという。前に現在と過去のすがたを示されていますから、この文は将来にむかって、今後も迷界を出る手がかりがないという意味と受けとることができます。

 そうしますと、私はいま罪悪生死の凡夫であるばかりでなく、これまでも、これから後も、迷界を出ることのできない身である、とはっきり知らせていただくのが機の深信であります。

法の深信の中、「かの阿弥陀仏の四十八願は」[1]というのは、意は第十八願を指しています。四十八願全体が衆生を救わずにはおかぬという第十八願に総摂されますから、今は第十八願のことを四十八願と仰せられたのです。「衆生を摂受して」というのは、「衆生」とは前の機の深信で示された衆生、すなわち迷界を出る手がかりのない私で、その私をお救いくださるのが阿弥陀仏の願力であるという。

 「疑いなく慮りなく」というのは、上の文に属して「衆生を摂受したもうこと、疑いなく慮りなし」というふうに見れば、阿弥陀仏が衆生を救いたもうことに一点の危ぶみもないという意になります。下の文に属して「疑いなく慮りなく彼の願力に乗じて」と見れば、願力に乗ずる私の心相が一点の危ぶみもないという意になります。機を救う法の側に危ぶみがないから、この法に救われる機の側に危ぶみがないのです。今の文は下の文に属して、衆生が一点の危ぶみもなく願力にお任せする意と見るのが文の当分でありましょう。

 「かの願力に乗じて」というのは、「乗」は船に乗るとか車に乗るというように乗託する(任せる)ことであって、阿弥陀仏の願力にお任せすること。「定んで往生をう」とは、まちがいなく真実報土に往き生まれることができるということであります。

 そうしますと、阿弥陀仏の願力は迷界を出る手がかりのない私どもをお救いくださる法である、とはっきり信知させていただくのが法の深信であります。

 この機法二種の深信は別々の二つの信心ではありません。前述のように、名号のおいわれを聞くことによっておこさしめられた他力の信心を機の側と法の側とに分けて示されたものであります。すでに(1)「聞信義相」の論題でうかがった通り、宗祖聖人は第十八願成就文の「聞其名号」を解釈されて(真聖全ニー七二)、

聞というは、衆生、仏願の生起本末を聞きて疑心あることなし。これを聞というなり。(*)

と示されています。「仏願の生起」は出離の縁あることなき私どもであり、「本末」とは、そのような私どものために願をおこし行をはげんで(本)、現在果成の阿弥陀仏となり、私どもに救いをよびかけていてくださること(末)であります。この仏願の生起本末を聞いて、その通りに領解できたのが「疑心あることなし」の信心ですから、常に没し常に流転して出離の縁あることなき私 (機) をお救いくださるのが阿弥陀仏の願力 (法) である、と信知せしめられます。ゆえに信機と信法とは二種一具であるといわれます。

 機の深信とは、機実すなわち私の本当のすがたを知らされることであり、法の深信とは、法実すなわち如来の願力の本当のすがたを知らされることであります。

 機実を知らされるということは、罪悪生死の凡夫で出離の縁あることなき私であると知らされることであり、出離の縁あることなき私であると知らされることは、私のカが出離のために役に立たないと知らされることであり、私の力が役に立たないと知らされることは、私のはからいを捨てるということであります。ですから、信機は捨機であるといわれます。

 法実を知らされるということは、如来の願力のひとりばたらきで救われると知らされることであり、願力のひとりばたらきで救われると知らされることは、すっかり願力にお任せするということであります。ですから、信法は託法(たくほう)であるといわれるのであります。

 わがはからいを捨てたのでなければ、如来の願力にお任せしたとはいえませんし、如来の願力にお任せしたのでなければ、わがはからいを捨てたとはいえません。いいかえますと、自力を捨てたのでなければ他力に帰したとはいえませんし、他力に帰したのでなげれば自力を捨てたとはいえません。こういう意味において、捨機即託法であり、捨自即帰他であります。

 善導大師の『往生礼讃』前序の安心を示されるところにも、『観経』の三心を示されてあって、その深心の解釈に(真聖全一ー六四九)、

二つには深心。すなわちこれ真実の信心なり。自身はこれ煩悩を具足せる凡夫、善根薄少にして、三界に流転して、火宅を出でずと信知す。
いま弥陀の本弘誓願は、名号を称すること下至十声一声等に及ぶまで、定んで往生を得しむと信知して、乃(いま)し一念に至るまで疑心あることなし。かるがゆえに深心と名つく。(*)

と述べられています。この『礼讃』では「一つには……二つには」と二種を分けず、「深く信ず」の代わりに「信知す」となっていますが、『散善義』の二種深信と同じで、信機と信法が示されています。

 信機について見ますと、『散善義』はくわしくて「『礼讃』は簡略であり、『散善義』は罪悪のみを示すのに対して『礼讃』は「善根薄少」と善も示されていますが、所詮「出離の縁あることなし」と「三界を出でず」と同じ意味であります。

 信法について見ますと、『散善義』では文面に称名が出ていませんが、『礼讃』には称名が出ています。しかし、『散善義』にあっては、ひろく七深信が述べられていて、その第七深信の就行立信の釈(*)(真聖全一ー五三八)には、「一心専念弥陀名号」の称名が第十八願に順ずる正定の業として示されています。

 こういうわけで、『散善義』の釈と『礼讃』の釈とは異なるものではありません。

 二種深信の信機は、いわゆる三定死とは異なります。三定死というのは、『散善義』の三心釈に示された二河白道の譬喩の中(*)(真聖全一ー五四○)に、かえるも死、とどまるも死、ゆくも死とあるもので、それはみずからの罪業におそれおののく絶望のすがたです。これはまだ釈迦のお勧め、弥陀のよぴ声が聞こえない時の心相です。機の深信は名号を聞信した心相であって、己の罪におののく恐怖の心相ではありません。

 二種深信は、機の深信が前で法の深信が後におこるのでもなく、同時に並び起こる別個の心相でもなく、また信後には信機がなくなるのでもありません。初後一貫する他力信心のすがたであります。

『やさしい安心論題の話』灘本愛慈 p66~


参考:
わかりやすい宗義問答


脚注

  1. 善導大師は四十八願のそれぞれに第十八願があるとみられていた。「一々の願にのたまはく、〈もしわれ仏を得たらんに、十方の衆生、わが名号を称してわが国に生ぜんと願ぜんに、下十念に至るまで、もし生ぜずは、正覚を取らじ〉」「玄義分」p.326