「自然」の版間の差分
出典: 浄土真宗聖典『ウィキアーカイブ(WikiArc)』
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[[顕智]]上人書写本ではこの前に「獲の字は<kana>[[因位]](いんに)</kana>のときうるを獲といふ。得の字は[[果位]]のときにいたりてうることを得といふなり。名の字は因位のときのなを名といふ。号の字は果位のときのなを号といふ」とある。([[正像末和讃#P--621|正像 P.621]],[[消息上#P--768|消息 P.768]]) | [[顕智]]上人書写本ではこの前に「獲の字は<kana>[[因位]](いんに)</kana>のときうるを獲といふ。得の字は[[果位]]のときにいたりてうることを得といふなり。名の字は因位のときのなを名といふ。号の字は果位のときのなを号といふ」とある。([[正像末和讃#P--621|正像 P.621]],[[消息上#P--768|消息 P.768]]) | ||
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人為的なものに対して、人為をからず、自ずからそうなっていること。この場合は「<kana>自(おの)</kana>ずから<kana>然(しか)</kana>り」と読む。<br> | 人為的なものに対して、人為をからず、自ずからそうなっていること。この場合は「<kana>自(おの)</kana>ずから<kana>然(しか)</kana>り」と読む。<br> |
2017年11月7日 (火) 09:50時点における版
じねん
顕智上人書写本ではこの前に「獲の字は
人為的なものに対して、人為をからず、自ずからそうなっていること。この場合は「
親鸞聖人は、「自ずから然らしむ」と読み、人間のはからいを超えた阿弥陀仏のはからいによる救いをあらわす語とされた。一般的には次の三種に分類される。
『浄土真宗聖典(注釈版)七祖篇』本願寺出版社
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- ノートよりインクルード
『和語灯録』諸人伝説の詞に、
- 又いはく、法爾道理といふ事あり。ほのほはそらにのほり、水はくだりさまにながる。菓子の中にすき物(酸きもの)あり、あまき物あり。これらはみな法爾道理也。阿弥陀ほとけの本願は、名号をもて罪悪の衆生をみちびかんとちかひ給たれば、ただ一向に念仏だにも申せば、仏の来迎は、法爾道理にてそなはるべきなり。(和語灯録#P--611)
とある。法爾道理とは『瑜伽師地論』の四種道理の一、法爾道理(法然道理ともいう。火に熱さがあるように、あるがままのすがたで不変の本性を完成しているという道理)をいうのであろう。また法然聖人は、
- 「しかるに源空は、させる因縁もなくして法爾法然と道心をおこすがゆへに、師匠名をさづけて法然となづけ給ひし也」(和語灯録#P--607)
と、法然という房号の名の由来をいわれている。
《然》とは、燃の原字であり火がもえるという意。借りて「是認」の意をしめし、和語では、しかある、そうである、そのような状態であるという意で「しかり」と訓む。法然聖人が示されたように《爾》もまた、しかある、しかり、という意味である。然、爾
御開山はこの《然》と《爾》の漢字を「しからしむ」と使役で読まれ、「自然」という漢語を、
- 「自然」といふは、「自」は、おのづからといふ、行者のはからひにあらず。しからしむといふことばなり。「然」といふは、しからしむといふことば、行者のはからひにあらず、如来のちかひにてあるがゆゑに。
- 「法爾」といふは、如来の御ちかひなるがゆゑに、しからしむるを法爾といふ。 (正像 P.621)
と読まれた。
本来ならば「自然」は「おのづからしかる」という意味で「しからしむ」などとは読めないのだが、「しからしむ」と読むことによって、自然という言葉に阿弥陀如来の本願力のはたらきを示そうとされたのであろう。このような発想は日本人の持つ、自然とともにあり
自然に抱(いだ)かれているという自然観を思わせるとともに『無量寿経』の「其国不逆違 自然之所牽(その国逆違せず、自然の牽くところなり)」という語との関係を想起させる。いわゆる「願力自然」の意に阿弥陀仏の本願力をあらわす「おのづからしからしむ」という自然法爾をみられたのである。
また「真仏土巻」で引文されておられる性功徳釈(真巻 P.358)で、浄土の本質・本性を「また性といふは、これ必然の義なり、不改の義なり」(真巻 P.358)とある。この「必然の義」という「必ずそうなる、それ以外にはありえないこと」という語の意から、然をしからしむと読まれたのであろう。
「これ浄土は法性に随順して法本に乖かず」との「正道大慈悲 出世善根生」と智慧を根とする正道の大慈悲の展開する界(さかい)であった。「積習して性を成ず。法蔵菩薩を指す。もろもろの波羅蜜を集めて積習して成ぜるところなり」(真巻 P.358)の「願力成就」の浄土であったから、その本願力の意を信(まこと)として受容した者の往生することは必然である意を自然法爾とされたのであった。
面白いのは、自然という語(ことば)は使っていないが、同じような自然(自ずから然らしむ)という発想をされたのが越前の山に入り「只管打坐(しかんたざ)」されたのが道元禅師である。
- たたし心をもてはかることなかれ。ことはをもていふことなかれ。たたわか身をも。心をも。はなちわすれて。佛のいへになけいれて。佛のかたよりおこなはれて。これにしたかひもてゆくとき。ちからをもいれす。こころをも。つひやさすして。生死をはなれ佛となる。(『正法眼蔵』生死の巻「原カタカナ」)(『大正蔵』82、305頁)
表現の形式こそ違うのだが、同じことをいわれているのだなと、只管(ひたすら)、なんまんだぶを称えるのも、いいものである。一向(ひたすら)専念無量寿仏である。