「疑蓋」の版間の差分
出典: 浄土真宗聖典『ウィキアーカイブ(WikiArc)』
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:しかれば濁世能化の釈迦善逝、至心信楽の願心を宣説したまふ。報土の真因は信楽を正とするがゆゑなり。ここをもつて『大経』には「信楽」とのたまへり、如来の誓願、疑蓋雑はることなきがゆゑに信とのたまへるなり。([[化巻本#P--393|化巻 P.393]]) | :しかれば濁世能化の釈迦善逝、至心信楽の願心を宣説したまふ。報土の真因は信楽を正とするがゆゑなり。ここをもつて『大経』には「信楽」とのたまへり、如来の誓願、疑蓋雑はることなきがゆゑに信とのたまへるなり。([[化巻本#P--393|化巻 P.393]]) | ||
についての「講義録」から疑蓋と信楽についての部分を抜粋。リンクや強調、註などは私において付した。}} | についての「講義録」から疑蓋と信楽についての部分を抜粋。リンクや強調、註などは私において付した。}} | ||
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如来が私達を救うという事に付いて、如来の側に一点の疑慮もない。決定して摂取する。決定摂取というのが如来のお心です。一点の疑い心もない。「あいつを助けてやる事できるかな。うまい事いくかな」そんな一点の疑い心もない。必ず摂取する。これは決定摂取です。 | 如来が私達を救うという事に付いて、如来の側に一点の疑慮もない。決定して摂取する。決定摂取というのが如来のお心です。一点の疑い心もない。「あいつを助けてやる事できるかな。うまい事いくかな」そんな一点の疑い心もない。必ず摂取する。これは決定摂取です。 |
2017年12月2日 (土) 14:04時点における版
梯實圓和上の「化巻」「三経通顕(真仮分判)」で、
- しかれば濁世能化の釈迦善逝、至心信楽の願心を宣説したまふ。報土の真因は信楽を正とするがゆゑなり。ここをもつて『大経』には「信楽」とのたまへり、如来の誓願、疑蓋雑はることなきがゆゑに信とのたまへるなり。(化巻 P.393)
如来が私達を救うという事に付いて、如来の側に一点の疑慮もない。決定して摂取する。決定摂取というのが如来のお心です。一点の疑い心もない。「あいつを助けてやる事できるかな。うまい事いくかな」そんな一点の疑い心もない。必ず摂取する。これは決定摂取です。
その決定摂取に対した時に私の方から「助かるだろうか、どうだろうか」という様なものがある訳がない。向こうが「助ける」と仰っているのに、こちらが助かるかどうかという事を案じるという事は如来の仰せを聞いていないという証拠です。如来の仰せを仰せの通りに聞けば疑いようがないのです。疑いを雑えるという事はまことに失礼な事だという事です。如来の仰せを誤解している事ですから如来様に対して非常に失礼な事なのです。
そこで「如来の誓願疑蓋雑わることなし」(化巻 P.393) 故に私の領受また疑蓋雑わることなし。それが信楽という事だ。だから信楽というのは如来の心でもあり衆生の心でもある。衆生の心でもあり、そのままが如来の決定摂取の心でもある。それが信楽というものだという事です。だから涅槃の真因決定という事になる訳です。これが「三一問答」の結論なのです。
(信巻の)三心一心の問答というのは、これが言いたいのです。
「疑蓋雑わることなきがゆゑに信とのたまへる」(化巻 P.393) ここに疑蓋の「蓋」には「ふた」という左訓があります。これは面白い左訓です。蓋というのは鍋の蓋、コップの蓋みたいなものです。鍋に蓋をしたまま、コップに蓋したまま水を入れようとしても入りません。全部外へ出てしまって一滴も中に入りません。ちょうどその様に心に蓋をしていたら法は入らない。
心の蓋をとれば水は自然と入っていくように心の蓋を取れば法は法の通りに届いて来るのです。その法が法の通りに届いた相(*すがたのこと)を信というのです。だから信というのは法が機にある相です。法が衆生の機の上にある相を信というのです。だから信を得るといいますが、信に体はありません。(*)
信というものは疑いのない状態です。ない状態なのです。だから宗祖は「信心というは如来の御誓いを聞きて疑う心のなきなり」 (一多 P.678 意)、 ここで「疑いない心」とは言わないで「疑う心なきなり」といいます。
では何があるのか、あるのは如来の御心が私に届いているという事なのです。あるのは如来の心が私にあるのです。だから信は私の上にあるけれども私のものではない。それを如来回向の信心というのです。
「それでは具体的に信の物柄というのは何ですか」といったら、それは勅命です。如来の仰せなのです。如来の仰せの他に信というものは存在しない。だから「勅命の他に領解なし」如来の仰せを聞く以外に信というものはない。だから仰せを仰せの通りに聞き入れている状態を信心と呼ぶのです。。
だからあるのは如来の仰せがあるのです。仰せがあるという事は、仰せとなって如来の心が私に届いているという事です。
必ず救おう、救済するという如来の心が私の上に顕現している相が信心というもの。だから信心とは如来の心である。衆生の上にあるけれども如来の心なのです。だからまた逆に言うと「誓願疑蓋雑わる事なし」誓願に疑いがないという事は、その如来の心が私の上に届いて来ないと意味をなさない訳です。だから「常に信は仏辺に仰ぐ」と昔の人が言うのはそれなのです。信心は自分の心に探さない。自分の心の中に「私は信心を得たか」と自分の心を探して見たって何もないのです。あるのは妄念煩悩だけです。何も無い。これは実に見事なもので何も無くなります。あるように思っていのは、あれはみな錯覚です。熱が三九度出たら頭の中には何もない。フワーとしてしまう。何にも残りません。実に見事に無くなってしまいます。そんなものなのです。
しかしそのままでお浄土行くのです。だから何か持って行くのではないのです。何もないのです。そのままで、生まれたままの裸で行くのです。だから信心らしいものを心の中に見つけたら、それはまず偽物でしょう。それは自分がそう錯覚しているだけです。だから感激があっても、そんなものはすぐに消えるでしょう。だから信心っていうのは感情ではないのです。そういう事です。