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「第十八願」の版間の差分

出典: 浄土真宗聖典『ウィキアーカイブ(WikiArc)』

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古来「十念往生の願」と呼ばれてきたが、十念という数に限定されるおそれがあるため浄土真宗ではこの呼称を使用しない。たとえ経典といえども文字に拘泥しない不依文依義の姿勢は宗祖御開山聖人以来の宗風である。このため断章取意の[[異義]]が生まれやすい(近年の同朋運動や基幹運動の名を借りた弥勒的世直し思想)。
 
  
浄土教はこのような理想主義的運動論を支える理論になることはないのである。理想を求めながら、理想を断念した挫折の慙愧の中に、如来のそれでもお前を救うという一人称の「声」を聴くのが浄土門仏教である。[[摂取]]とはこのような状況をあらわし表現する言葉なのである。
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*道綽「本願取意の文」
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:若有衆生 縦令一生造悪 臨命終時 十念相続称我名字 若不生者不取正覚。
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::もし衆生ありて、たとひ一生悪を造れども、命終の時に臨みて、十念相続してわが名字を称せんに、もし生ぜずは正覚を取らじ。([[安楽集 (七祖)#P--242|安楽集 P.242]])
  
「お前の立派な論理を捨てて、馬鹿になってなんまんだぶつしてみんか」の声が「至心信楽」である。なんまんだぶつはさとりを獲る「行」であるから称えると言う[[口業]]に限定ではない。身口意全てをあげての「行」である。摩訶止観でいわれる「大行」を越える「大行」がなんまんだぶつである。
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*善導「本願加減の文」
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:若我成仏 十方衆生 願生我国 称我名字 下至十声 乗我願力 若不生者 不取正覚。
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::もしわれ成仏せんに、十方 の衆生、わが国に生ぜんと願じて、わが名字を称すること、下十声に至るまで、 わが願力に乗じて、もし生ぜずは、正覚を取らじ。([[観念法門 (七祖)#P--630|観念法門 P.630]])([[行巻#no31|行巻 P.169]], [[尊号真像銘文#P--656|尊号 P.656]])
  
しかし、ここで「大行」に相応しようと思い、[[身口意]]の三業を私が<u>なさければならない</u>と思い立った瞬間に浄土は「十万億」のかなたであることを実感するであろう。
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*善導「本願取意の文」
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:若我得仏 十方衆生 称我名号 願生我国 下至十念 若不生者 不取正覚。
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::もしわれ仏を得たらんに、十方の衆生、わが名号を称して、わが国に生ぜんと願ぜん、下十念に至るまで、もし生ぜずは正覚を取らじ。
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([[観経疏 玄義分 (七祖)#一々の願にのたまわく|玄義分 P.326]])([[真巻#P--364|真巻 P.364]])
  
なんまんだぶつを称えることは、浄土が私に対して[[顕現]]していることであり、
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*善導「自解本願の文」
 
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:若我成仏 十方衆生 称我名号 下至十声 若不生者 不取正覚。
酔っ払ったので以後中断
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::もしわれ成仏せんに、十方の衆生、わが名号を称すること下十声に至るまで、もし生ぜずは、正覚を取らじ。([[往生礼讃 (七祖)#P--711|往生礼讃 P.711]]) ([[行巻#P--169|行巻 P.169]]、[[化巻末#P--472|化巻 P.472]])

2019年5月14日 (火) 10:45時点における版

  • 道綽「本願取意の文」
若有衆生 縦令一生造悪 臨命終時 十念相続称我名字 若不生者不取正覚。
もし衆生ありて、たとひ一生悪を造れども、命終の時に臨みて、十念相続してわが名字を称せんに、もし生ぜずは正覚を取らじ。(安楽集 P.242)
  • 善導「本願加減の文」
若我成仏 十方衆生 願生我国 称我名字 下至十声 乗我願力 若不生者 不取正覚。
もしわれ成仏せんに、十方 の衆生、わが国に生ぜんと願じて、わが名字を称すること、下十声に至るまで、 わが願力に乗じて、もし生ぜずは、正覚を取らじ。(観念法門 P.630)(行巻 P.169, 尊号 P.656)
  • 善導「本願取意の文」
若我得仏 十方衆生 称我名号 願生我国 下至十念 若不生者 不取正覚。
もしわれ仏を得たらんに、十方の衆生、わが名号を称して、わが国に生ぜんと願ぜん、下十念に至るまで、もし生ぜずは正覚を取らじ。

(玄義分 P.326)(真巻 P.364)

  • 善導「自解本願の文」
若我成仏 十方衆生 称我名号 下至十声 若不生者 不取正覚。
もしわれ成仏せんに、十方の衆生、わが名号を称すること下十声に至るまで、もし生ぜずは、正覚を取らじ。(往生礼讃 P.711) (行巻 P.169化巻 P.472)