「同一念仏…」の版間の差分
出典: 浄土真宗聖典『ウィキアーカイブ(WikiArc)』
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:かの安楽国土はこれ阿弥陀如来正覚浄華の[[化生]]するところにあらざるはなし。'''同一に念仏して別の道なきがゆゑなり'''。遠く通ずるにそれ[[四海]]のうちみな兄弟たり。〔浄土の〕眷属無量なり。いづくんぞ思議すべきや。([[浄土論註 (七祖)#P--120|論註 P.120]]) | :かの安楽国土はこれ阿弥陀如来正覚浄華の[[化生]]するところにあらざるはなし。'''同一に念仏して別の道なきがゆゑなり'''。遠く通ずるにそれ[[四海]]のうちみな兄弟たり。〔浄土の〕眷属無量なり。いづくんぞ思議すべきや。([[浄土論註 (七祖)#P--120|論註 P.120]]) | ||
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− | と「同一念仏 無別道故」とされていた。浄土へ生まれるとは、生死輪廻による[[四生]] (胎・卵・湿・化) | + | と「同一念仏 無別道故」とされていた。浄土へ生まれるとは、生死輪廻による[[四生]] (胎・卵・湿・化)という生まれ方ではなく、浄土の阿弥陀仏の正覚の蓮華に化生<ref>化生。ここでは、自然に生滅を超えた無生の生を受けることを化生といふ。</ref>するのであった。 |
法然聖人は「往生と言うは、<kana>此(ここ)</kana>を捨て<kana>彼(かなた)</kana>に往きて、蓮華に'''化生'''するなり(言往生者 捨此往彼 蓮華化生)」[http://www.jozensearch.jp/pc/zensho/image/volume/9/page/373 (『往生要集大綱』第七)]といわれていた。阿弥陀仏の平等の救いは、「選択本願念仏」の、ただ、なんまんだぶを称える一行であるからである。<br /> | 法然聖人は「往生と言うは、<kana>此(ここ)</kana>を捨て<kana>彼(かなた)</kana>に往きて、蓮華に'''化生'''するなり(言往生者 捨此往彼 蓮華化生)」[http://www.jozensearch.jp/pc/zensho/image/volume/9/page/373 (『往生要集大綱』第七)]といわれていた。阿弥陀仏の平等の救いは、「選択本願念仏」の、ただ、なんまんだぶを称える一行であるからである。<br /> | ||
御開山は「行巻」で、その意を、 | 御開山は「行巻」で、その意を、 | ||
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と、『論註』の文を念仏を称えて'''「[[念仏成仏]]」'''する[[文証]]として引文されておられた。<br /> | と、『論註』の文を念仏を称えて'''「[[念仏成仏]]」'''する[[文証]]として引文されておられた。<br /> | ||
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:問。法蔵菩薩の本願の約束は、十声・一声なり。一称ののちは、法蔵菩薩の因位の本誓に心をかけて、名号おば称すべからざるにや。 | :問。法蔵菩薩の本願の約束は、十声・一声なり。一称ののちは、法蔵菩薩の因位の本誓に心をかけて、名号おば称すべからざるにや。 |
2018年10月5日 (金) 12:02時点における版
同一念仏 無別道故 どういつねんぶつ-むべつどうこ
「同一に念仏して別の道なきがゆゑに」(行巻訓) (行巻 P.186,証巻 P.310,真巻 P.372,一代記 P.1320)
出典(教学伝道研究センター編『浄土真宗聖典(注釈版)第二版』本願寺出版社
『浄土真宗聖典(注釈版)七祖篇』本願寺出版社
区切り線以下の文章は各投稿者の意見であり本願寺派の見解ではありません。
『浄土真宗聖典(注釈版)七祖篇』本願寺出版社
区切り線以下の文章は各投稿者の意見であり本願寺派の見解ではありません。
『論註』では『浄土論』の「如来浄華衆 正覚華化生」(浄土論 P.30) の偈文を釈して、
と「同一念仏 無別道故」とされていた。浄土へ生まれるとは、生死輪廻による四生 (胎・卵・湿・化)という生まれ方ではなく、浄土の阿弥陀仏の正覚の蓮華に化生[1]するのであった。
法然聖人は「往生と言うは、
御開山は「行巻」で、その意を、
- ここをもつて『論の註』にいはく、「かの安楽国土は、阿弥陀如来の正覚浄華の化生するところにあらざることなし。同一に念仏して別の道なきがゆゑに」とのたまへり。(行巻 P.186)
と、『論註』の文を念仏を称えて「念仏成仏」する文証として引文されておられた。
なお、御開山が晩年に述された法然聖人の法語集である『西方指南抄』では、一声や一念の信に固執して称名(なんまんだぶ)をおろそかにして相続(次々に続くこと)しないことを、
- 問。法蔵菩薩の本願の約束は、十声・一声なり。一称ののちは、法蔵菩薩の因位の本誓に心をかけて、名号おば称すべからざるにや。
- 答。無沙汰なる人は、かくのごとくおもひて、因位の願を縁じて念仏おも申せは、これをしえたるここちして、願を縁ぜざる時の念仏[2]おば、ものならずおもふて、念仏に善悪をあらす[3]るなり。これは無按内[4]のことなり。法蔵菩薩の五劫の思惟は、衆生の意念を本とせば、識揚神飛[5]のゆへ、かなふべからずとおぼしめして、名号を本願と立たまへり。この名号はいかなる乱想の中にも称すべし。称すれば、法蔵菩薩の昔の願に、心をかけむとせざれとも、自然にこれこそ本願よとおぼゆべきは、この名号なり。しかれば、別に因位の本願を縁ぜむと、おもふべきにあらず。(『西方指南抄』四箇条問答p.178|)
とされておられた。
- ↑ 化生。ここでは、自然に生滅を超えた無生の生を受けることを化生といふ。
- ↑ 願を縁ぜざる時の念仏。心にしっかり本願を思い浮かべないで称える念仏の意。縁ずるとは、対象を認識するという意味。
- ↑ 念仏に善悪をあらす。念仏に善悪があると思って。(生(あ)らす、生ずるの意か)。
- ↑ 物事の意味や事情などを心得ないこと。
- ↑ 識揚神飛。識揚がり神飛ぶ。心のはたらきがうわつき、精神がつねに動揺すること。『礼讃』には「すなはち衆生障重くして、境は細に心は粗なるによりて、識颺り神飛びて、観成就しがたし。ここをもつて大聖(釈尊)悲憐して、ただ勧めてもつぱら名字を称せしむ。まさしく称名は易きによるがゆゑに、相続してすなはち生ず」(往生礼讃 P.658) 。