「我」の版間の差分
提供: WikiArc
10行目: | 10行目: | ||
梵語アートマン (ātman) の意訳。 | 梵語アートマン (ātman) の意訳。 | ||
− | Ⅰ 行為主体としての自己・私のこと。 | + | :Ⅰ 行為主体としての自己・私のこと。 |
− | Ⅱ 永遠不滅の実体としての自我・個我・自己のこと。固定的実体のこと。仏教で否定される「[[常一主宰|常・一・主・宰]]」の実体。→[[我見]]、[[無我]]。(浄土真宗辞典) | + | :Ⅱ 永遠不滅の実体としての自我・個我・自己のこと。固定的実体のこと。仏教で否定される「[[常一主宰|常・一・主・宰]]」の実体。→[[我見]]、[[無我]]。(浄土真宗辞典) |
}} | }} | ||
2022年9月6日 (火) 14:46時点における版
が
固定的な自己の実体。 (要集 P.1040)
『浄土真宗聖典(注釈版)七祖篇』本願寺出版社
区切り線以下の文章は各投稿者の意見であり本願寺派の見解ではありません。
が 我
梵語アートマン (ātman) の意訳。
が 我 (梵)アートマン
アートマン ātman の訳。本来は呼吸の意。転じて、生命、自己、身体、他者に対する自我、自我の本質、物一般の本質自性、すべてのものの根源に内在して個体を支配し統一する独立の永遠的な主体を意味する。アートマンはインドの思想界では重要な課題の一つである。仏教では、永遠に存続し(常)、自主独立して存在し(一)、中心的な所有主として(主)、すべてを支配する(宰)ような我の存在を否定して無我説をたてた <→無我>。
① リグ・ヴェーダ Rg-veda (1200 B.C前後)以来、アートマンの語は用いられた。ブラーフマナ Brāh maṇa (800 B.C前後)には人間の生命活動の主体として息(プラーナ prāṇa, 気息) を考えたが、次第にプラーナは個々の生命現象を意味するようになり、アートマンこそは一層本質的なものとして考えられ、シャタパタ・ブラーフマナでは、言語・視力・聴力などの生命現象はアートマンを基礎として現われ、アートマンによって統一されているとし、またアートマンはプラジャーパテ Prājapati (造物主)と全く同一であるともしている。
② ウパニシャッドの時代(500 BC前後から) には、アートマンが宇宙を創造したと説き(アイタレーヤ・ウパニシャッド、ブリハド・アーラニヤカ・ウパニシャッド)、或いは、アートマンは個人我(小我)であると共に宇宙の中心原理(大我)であるともし、またブラフマン brahman (梵、宇宙原理)とアートマンとが一体になることを求めたり、ブラフマンとアートマンとが同一である(梵我一如) としたり、さらには、アートマンのみが真の実在で他はすべて幻(梵) マーヤ maya)であるともする。
③ 阿含の仏教では、人間の個体の全体を我である(⑴五蘊が我である) としたり、或いは個体の内にあってその中心生命となるものを我である(⑵我は五蘊を有す)としたり、或いは宇宙原理を我である(⑶我中に五蘊がある) としたり或いは存在要素はそれぞれに固有な性質(自性)をもっている (⑷五蘊中に我がある)とするような有我説を否定する (後世これを二十句の有身見という。上の ⑴⑵⑶⑷が五蘊のそれぞれについていわれるからである。またこれは我見〔⑴に当たる〕と我所見〔⑵⑶⑷当たる〕とに分けられる。我所とは、我の所有、我の所属、我と離れない事物の意)。
④部派仏教では、生まれかわり死にかわる輪廻の主体と無我説との関係などと連関して、種々な解釈をした。説一切有部(せついっさい-うぶ)では、個体の中心生命としての我(人我、霊魂的自我)は否定したが、存在の構成要素の実体としての自性(法我) は常に実在するとした。このような人我見と法我見とを二種我見という。横子部(とくしぶ)や正量部(しょうりょうぶ)では、非即非離蘊の我と称する我があるとして、それは五蘊によって仮に構成された生命をもつ個体そのもの(即蘊) でもなく、また五蘊の他に別に我と称するものがある(離蘊) のでもなく、五蘊とつかずはなれずにあるものであるとする。また経量部部(きょうりょうぶ)には勝義補特伽羅(しょうぎーふどがら)の説がある。成唯識論巻一には仏教以外および部派の我に対する説を、即蘊我(世間一般の説) 離蘊我(数論・勝論・経量部など)・非即非離蘊我(犢子部・正量部など)の三種の我に分煩して、批判している。
⑤大乗では、個体としての我(人我)を否定するのみでなく、部派で存在を認めていた法我(存在を構成としたり、或いは存在要素がそれぞれに固している要素の実体)をも否定して、人法二無我を説き、すべてのものが無自性空であるとする。 また、部派仏教では、すべてのものが無常であり苦であり無我であり不浄であるときとって、煩悩減しつくした境地を究極的な涅槃であるとするのに対して、大乗ではすべてのものはもともと空であるから、それをさとった涅槃の境地は絶対的な自由の境地であって、常・楽・我・浄 の徳をもつとする。その我は、凡夫の考える小我と区別されて、大我、真我などといわれる。
⑥我は四種の我にも分類される。 ⑴凡夫の迷いから生じた我。⑵仏教以外の 学派(外道)が説く神我(梵) プルシャ puruṣa 丈夫、人、原人とも訳す)。実体がないものに仮に名づけた仮我、例えば五蘊で 構成された肉身を仮に我と呼ぶような場合 (如来の法身を意味する真我。その特性を八大自在我として説明することもある。
⑦仏教以外のインドの諸学派(外道)におけ る我の説を一六種に分類して十六知見、或 いは十六神我という。知見とは知者、見者の意で、我に、知る能力、見る能力がある と執われている者の意。一六とは、我・衆生・寿者・命者・生者・養育・衆数・人(者)・作者・ 使作者・起者・使起者・受者・使受者・知者・見者をいう(智度論巻三五)。(仏教学辞典)