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「仏心」の版間の差分

出典: 浄土真宗聖典『ウィキアーカイブ(WikiArc)』

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:この願成就の文に「信心歓喜乃至一念」{{SHD|no1|信心歓喜せんこと、乃至一念せん。([[大経下#P--41|大経 P.41]])}} とらのたまへり。この信心をば、まことのこゝろとよむうへは、[[凡夫]]の迷心にあらず、またく'''仏心'''なり。この'''仏心'''を凡夫にさづけたまふとき、[[信心]]といはるゝなり。凡夫のまことのこゝろとおぼしきは、[[一念]]おこすににたれども、またくすゑとをらず。しかれば[[光明寺]]の御釈にも、「たとひ清心をおこすといへども、水に<kana>画(え)</kana>がけるがごとし」([[観経疏 序分義 (七祖)#P--340|序分義]])とみえたり。やぶれやすきこといふにおよばず。往生ほどの一大事を、やぶれやすき凡情をもて[[治定]]すべきにあらず。([[最要鈔#P--343]])
 
:この願成就の文に「信心歓喜乃至一念」{{SHD|no1|信心歓喜せんこと、乃至一念せん。([[大経下#P--41|大経 P.41]])}} とらのたまへり。この信心をば、まことのこゝろとよむうへは、[[凡夫]]の迷心にあらず、またく'''仏心'''なり。この'''仏心'''を凡夫にさづけたまふとき、[[信心]]といはるゝなり。凡夫のまことのこゝろとおぼしきは、[[一念]]おこすににたれども、またくすゑとをらず。しかれば[[光明寺]]の御釈にも、「たとひ清心をおこすといへども、水に<kana>画(え)</kana>がけるがごとし」([[観経疏 序分義 (七祖)#P--340|序分義]])とみえたり。やぶれやすきこといふにおよばず。往生ほどの一大事を、やぶれやすき凡情をもて[[治定]]すべきにあらず。([[最要鈔#P--343]])
 
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と、信心は仏心であると述べておられた。
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と、信心は仏心であると述べておられた。信の和訓は、まこと、まかせるとある。
  
 
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2024年7月8日 (月) 14:52時点における版

 ぶっしん

 禅宗のこと。→禅宗 (愚禿上 P.501,尊号 P.668, 後世物語 P.1364)

出典(教学伝道研究センター編『浄土真宗聖典(注釈版)第二版』本願寺出版社
『浄土真宗聖典(注釈版)七祖篇』本願寺出版社

区切り線以下の文章は各投稿者の意見であり本願寺派の見解ではありません。

ぶっしん 仏心

Ⅰ 仏の大いなる慈悲の心のこと。『観経』には

「仏心とは大慈悲これなり。無縁の慈をもつてもろもろの衆生を摂したまふ」 と説かれている。→慈悲、→三縁

Ⅱ 仏心宗〔禅宗〕の略。(浄土真宗辞典)

『観経』には。

この観をなすをば、一切の仏身を観ずと名づく。仏身を観ずるをもつてのゆゑにまた仏心を見る。仏心とは大慈悲これなり。無縁の慈をもつてもろもろの衆生を摂す。

とある。
梯實圓和上は「時々 仏さまが判らないと云う人がいる。そういふ人は大慈悲心を起こせば仏さまが判る。大慈悲心が判れば仏心が判る、仏心が判れば仏身が解る」と云われていたものだ。[1]
これを善導大師は、

学仏大悲心(仏の大悲心を学して)玄義分 P.298

と指示されていたのである。

覚如上人は『最要鈔』で、

この願成就の文に「信心歓喜乃至一念」「隠/顕」
信心歓喜せんこと、乃至一念せん。(大経 P.41)
とらのたまへり。この信心をば、まことのこゝろとよむうへは、凡夫の迷心にあらず、またく仏心なり。この仏心を凡夫にさづけたまふとき、信心といはるゝなり。凡夫のまことのこゝろとおぼしきは、一念おこすににたれども、またくすゑとをらず。しかれば光明寺の御釈にも、「たとひ清心をおこすといへども、水に()がけるがごとし」(序分義)とみえたり。やぶれやすきこといふにおよばず。往生ほどの一大事を、やぶれやすき凡情をもて治定すべきにあらず。(最要鈔#P--343)

と、信心は仏心であると述べておられた。信の和訓は、まこと、まかせるとある。


  1. 『観経』には「仏身を観ずるをもつてのゆゑにまた仏心を見る。仏心とは大慈悲これなり。」(観経 P.102)とある。これを逆見すれば、大慈悲→仏心→仏身となる。