「性徳」の版間の差分
出典: 浄土真宗聖典『ウィキアーカイブ(WikiArc)』
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そして虚妄分別心が、真如という[[性徳]]に背反していることを痴無明といい、阿弥陀如来の本願という修徳([[仏願の生起本末]])を受けいれないことを本願疑惑というのである。<br /> | そして虚妄分別心が、真如という[[性徳]]に背反していることを痴無明といい、阿弥陀如来の本願という修徳([[仏願の生起本末]])を受けいれないことを本願疑惑というのである。<br /> | ||
− | いいかえれば、根本無明(痴無明)は煩悩とともに死ぬまでありつづけるが、本願に対する疑い(疑無明) | + | いいかえれば、根本無明(痴無明)は煩悩とともに死ぬまでありつづけるが、本願に対する疑い(疑無明)がはれたとき生死に迷うことはなくなるのである。これを真宗独自の「痴無明、疑無明」説という。→[[hwiki:称名破満の釈義|称名破満の釈義]] |
− | そもそも仏教における悪とは戒律に背くことでありそれを罪とするのだが、御開山は[[仏願の生起本末]] | + | そもそも仏教における悪とは戒律に背くことでありそれを罪とするのだが、御開山は[[仏願の生起本末]]の[[修徳]]の顕現である阿弥陀仏の仏智を疑うことが根本的な罪であるとされた。<br /> |
御開山が、疑いを誡める「誡疑讃」で、<br /> | 御開山が、疑いを誡める「誡疑讃」で、<br /> | ||
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2024年8月29日 (木) 20:35時点における版
このように聖道門では自己の自性清浄である性徳の上において、これを照らし出す精進努力の修徳を語る。客塵煩悩のように、自らの修行に依って煩悩がはらわれるとする。
浄土門では、阿弥陀如来の因位の兆載永劫の修行の修徳の上で性徳を語る。
阿弥陀如来の五劫兆載永劫の修徳の上で性徳(真如、法性、一如)を論じるのである。
そして虚妄分別心が、真如という性徳に背反していることを痴無明といい、阿弥陀如来の本願という修徳(仏願の生起本末)を受けいれないことを本願疑惑というのである。
いいかえれば、根本無明(痴無明)は煩悩とともに死ぬまでありつづけるが、本願に対する疑い(疑無明)がはれたとき生死に迷うことはなくなるのである。これを真宗独自の「痴無明、疑無明」説という。→称名破満の釈義
そもそも仏教における悪とは戒律に背くことでありそれを罪とするのだが、御開山は仏願の生起本末の修徳の顕現である阿弥陀仏の仏智を疑うことが根本的な罪であるとされた。
御開山が、疑いを誡める「誡疑讃」で、
(82)
- 仏智うたがふつみふかし
- この心おもひしるならば
- くゆるこころをむねとして
- 仏智の不思議をたのむべし (正像 P.614)
- 以上二十三首、仏不思議の弥陀の御ちかひをうたがふつみとがをしらせんとあらはせるなり。
と「仏智うたがふつみふかし」とせられた所以である。