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「末法」の版間の差分

出典: 浄土真宗聖典『ウィキアーカイブ(WikiArc)』

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まっぽう
 
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 <kana>正(しょう)</kana>・<kana>像(ぞう)</kana>・<kana>末(まつ)</kana>の三時の一。像法のあと、一万年つづくという。教(仏の教法)のみあって行(実践)と<kana>証(さとり)</kana>のない仏教衰微の時代。なお末法を過ぎて教法もなくなる時代を<kana>法滅(ほうめつ)</kana>という。<kana>[[道綽]](どうしゃく)</kana><kana>禅師(ぜんじ)</kana>は、今時末法という自覚に立って、末法に生きる<kana>凡夫(ぼんぶ)</kana>の救いを説くのが他力浄土の教であると規定された。以来浄土の教法は、末法には滅亡していく<kana>自力聖道(しょうどう)</kana>の教に対して末法相応の教として確立されていった。→[[三時]]、[[正法]]、[[像法]]。
  
 
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2017年11月4日 (土) 10:33時点における版

まっぽう

 (しょう)(ぞう)(まつ)の三時の一。像法のあと、一万年つづくという。教(仏の教法)のみあって行(実践)と(さとり)のない仏教衰微の時代。なお末法を過ぎて教法もなくなる時代を法滅(ほうめつ)という。道綽(どうしゃく)禅師(ぜんじ)は、今時末法という自覚に立って、末法に生きる凡夫(ぼんぶ)の救いを説くのが他力浄土の教であると規定された。以来浄土の教法は、末法には滅亡していく自力聖道(しょうどう)の教に対して末法相応の教として確立されていった。→三時正法像法

出典(教学伝道研究センター編『浄土真宗聖典(注釈版)第二版』本願寺出版社
『浄土真宗聖典(注釈版)七祖篇』本願寺出版社

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