「五念門」の版間の差分
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− | + | またこの五念門行を修する結果として得られる徳を五種の功徳([[五功徳門]]・五果門)として示す。 | |
− | [[親鸞聖人]]は< | + | [[親鸞聖人]]は<kana>[[曇鸞]](どんらん)</kana>大師の『論註』を通して、これら五種の行が、すべて[[法蔵菩薩]] 所修の功徳として名号にそなわって衆生に回向されると説く。→[[五種の功徳]] (ごしゅのくどく)。(巻末註) |
『浄土論』 (底本) には 「五門」 とある。 ([[浄土論註 (七祖)#P--154|論註 P.154]]) | 『浄土論』 (底本) には 「五門」 とある。 ([[浄土論註 (七祖)#P--154|論註 P.154]]) | ||
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阿弥陀仏の浄土へ生まれるための五つの行いを五念門(五因門)といい、その結果として得られる徳を五功徳門(五果門)という。 | 阿弥陀仏の浄土へ生まれるための五つの行いを五念門(五因門)といい、その結果として得られる徳を五功徳門(五果門)という。 | ||
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:④観察門(智業)①~③によって正しい智慧を起こし、その智慧によって浄土の真実相を観(み)ること。毘婆舎那。梵語でヴィパシュヤナー(vipaśyanā)。 | :④観察門(智業)①~③によって正しい智慧を起こし、その智慧によって浄土の真実相を観(み)ること。毘婆舎那。梵語でヴィパシュヤナー(vipaśyanā)。 | ||
:⑤回向門(方便智業)①~④によって得るところの功徳をすべてのものに施すこと。 | :⑤回向門(方便智業)①~④によって得るところの功徳をすべてのものに施すこと。 | ||
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前の四門は自己がさとりに入るためのものであるから入門、後の回向門は他を救うためにはたらき出るものであるから出門、合わせて入出二門という。 | 前の四門は自己がさとりに入るためのものであるから入門、後の回向門は他を救うためにはたらき出るものであるから出門、合わせて入出二門という。 | ||
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+ | 曇鸞大師は、天親菩薩の示された奢摩他・毘婆舎那の行としての作願・観察中心の高度な修行法である止観行を、五念門の讃歎門における口業の称名に着目して、凡夫相応の称名(讃歎門)を中心として五念門を領解され、これを凡夫相応の往生行であるとみられた。 | ||
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+ | 善導大師は『往生礼讃』の五念門で、作願(止)と観察(観)を入れ替えている。止は奢摩他(シャマタ)(心を静め止める禅定)、観は毘鉢舎那(ビバシャナ)(止による不動の智慧により真理を観察する)である。作願と観察を入れ替えることによって、聖道門の高度な修行体系である止観行ではない凡夫の五念門という意味を表わそうとされたのであろう。([[往生礼讃 (七祖)#P--655|往生礼讃 P.655]]) | ||
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+ | 源信僧都は『論註』を孫引きでしか見ておられなかったといわれ『往生要集』の「正修念仏門」で作願を発菩提心であると釈されていた。([[往生要集上巻 (七祖)#作願門|要集 P.902]]) | ||
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+ | 御開山は『論註』を通して、それまで浄土願生者の修める行とされていた五念門を、法蔵菩薩の所修の行であるとされ、阿弥陀仏の名号には五念門の功徳が具わっているとされ『入出二門偈」で、 | ||
+ | :願力成就を五念と名づく、仏をしていはばよろしく利他といふべし。衆生をしていはば他利といふべし。まさに知るべし、いままさに仏力を談ぜんとす。([[二門#no2|二門 P.548]]) | ||
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2017年12月6日 (水) 15:19時点における版
ごねんもん
阿弥陀仏の浄土に往生するための
- ①
礼拝 門。身に阿弥陀仏を礼拝すること。 - ②
讃嘆 門。光明 と名号 のいわれを信じ、口に仏名 を称えて阿弥陀仏の功徳 をたたえること。 - ③
作願 門。一心に専ら阿弥陀仏の浄土に生れたいと願うこと。 - ④
観察 門。阿弥陀仏・菩薩の姿、浄土の荘厳 を思いうかべること。 - ⑤
回向 門。自己の功徳 をすべての衆生 にふりむけてともに浄土に往生したいと願うこと。
またこの五念門行を修する結果として得られる徳を五種の功徳(五功徳門・五果門)として示す。
親鸞聖人は
『浄土論』 (底本) には 「五門」 とある。 (論註 P.154)
往生礼讃の五念門
天親菩薩の『浄土論』 では、五念門は
『浄土真宗聖典(注釈版)七祖篇』本願寺出版社
区切り線以下の文章は各投稿者の意見であり本願寺派の見解ではありません。
御開山と曇鸞大師、天親(世親)菩薩の、それぞれに五念門の解釈が違うので天親菩薩の当面の説をあげておく。
- 五念門(天親菩薩の『浄土論』の説)
阿弥陀仏の浄土へ生まれるための五つの行いを五念門(五因門)といい、その結果として得られる徳を五功徳門(五果門)という。
- ①礼拝門(身業)仏を礼拝すること。
- ②讃嘆門(口業)口に仏名を称えて仏の徳を褒め称えること。
- ③作願門(意業)諸々の思いを止めて、浄土に精神を集中(止)すること。奢摩他。梵語でシャマタ(śamatha)。
- ④観察門(智業)①~③によって正しい智慧を起こし、その智慧によって浄土の真実相を観(み)ること。毘婆舎那。梵語でヴィパシュヤナー(vipaśyanā)。
- ⑤回向門(方便智業)①~④によって得るところの功徳をすべてのものに施すこと。
前の四門は自己がさとりに入るためのものであるから入門、後の回向門は他を救うためにはたらき出るものであるから出門、合わせて入出二門という。
曇鸞大師は、天親菩薩の示された奢摩他・毘婆舎那の行としての作願・観察中心の高度な修行法である止観行を、五念門の讃歎門における口業の称名に着目して、凡夫相応の称名(讃歎門)を中心として五念門を領解され、これを凡夫相応の往生行であるとみられた。
善導大師は『往生礼讃』の五念門で、作願(止)と観察(観)を入れ替えている。止は奢摩他(シャマタ)(心を静め止める禅定)、観は毘鉢舎那(ビバシャナ)(止による不動の智慧により真理を観察する)である。作願と観察を入れ替えることによって、聖道門の高度な修行体系である止観行ではない凡夫の五念門という意味を表わそうとされたのであろう。(往生礼讃 P.655)
源信僧都は『論註』を孫引きでしか見ておられなかったといわれ『往生要集』の「正修念仏門」で作願を発菩提心であると釈されていた。(要集 P.902)
御開山は『論註』を通して、それまで浄土願生者の修める行とされていた五念門を、法蔵菩薩の所修の行であるとされ、阿弥陀仏の名号には五念門の功徳が具わっているとされ『入出二門偈」で、
- 願力成就を五念と名づく、仏をしていはばよろしく利他といふべし。衆生をしていはば他利といふべし。まさに知るべし、いままさに仏力を談ぜんとす。(二門 P.548)
と、願力成就を五念であるとされた。