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五念門

出典: 浄土真宗聖典『ウィキアーカイブ(WikiArc)』

 ごねんもん

 阿弥陀仏浄土往生するための(ぎょう)として、天親(てんじん)菩薩の『浄土論』に示された五種の行。

礼拝(らいはい)門。身に阿弥陀仏を礼拝すること。
讃嘆(さんだん)門。光明(こうみょう)名号(みょうごう)のいわれを信じ、口に仏名(ぶつみょう)を称えて阿弥陀仏の功徳(くどく)をたたえること。
作願(さがん)門。一心に専ら阿弥陀仏の浄土に生れたいと願うこと。
観察(かんざつ)門。阿弥陀仏・菩薩の姿、浄土の荘厳(しょうごん)を思いうかべること。
回向(えこう)門。自己の功徳(くどく)をすべての衆生(しゅじょう)にふりむけてともに浄土に往生したいと願うこと。

またこの五念門行を修する結果として得られる徳を五種の功徳(五功徳門・五果門)として示す。 親鸞聖人曇鸞(どんらん)大師の『論註』を通して、これら五種の行が、すべて法蔵菩薩 所修の功徳として名号にそなわって衆生に回向されると説く。→五種の功徳 (ごしゅのくどく)。(巻末註)

 『浄土論』 (底本) には 「五門」 とある。 (論註 P.154)


往生礼讃の五念門
 天親菩薩の『浄土論』 では、五念門は礼拝(らいはい)讃嘆(さんだん)作願(さがん)観察(かんざつ)回向(えこう)の順序であるのに対し、『礼讃』 では、第三が観察、第四が作願となっている。 (往生礼讃 P.655)

出典(教学伝道研究センター編『浄土真宗聖典(注釈版)第二版』本願寺出版社
『浄土真宗聖典(注釈版)七祖篇』本願寺出版社

区切り線以下の文章は各投稿者の意見であり本願寺派の見解ではありません。

御開山と曇鸞大師、天親(世親)菩薩の、それぞれに五念門の解釈が違うので天親菩薩の当面の説をあげておく。

五念門(天親菩薩の『浄土論』の説)

阿弥陀仏の浄土へ生まれるための五つの行いを五念門(五因門)といい、その結果として得られる徳を五功徳門(五果門)という。

①礼拝門(身業)仏を礼拝すること。
②讃嘆門(口業)口に仏名を称えて仏の徳を褒め称えること。
③作願門(意業)諸々の思いを止めて、浄土に精神を集中(止)すること。奢摩他。梵語でシャマタ(śamatha)。
④観察門(智業)①~③によって正しい智慧を起こし、その智慧によって浄土の真実相を観察(観)すること。毘婆舎那。梵語でヴィパシュヤナー(vipaśyanā)。
⑤回向門(方便智業)①~④によって得るところの功徳をすべてのものに施すこと。

前の四門は自己がさとりに入るためのものであるから入門、後の回向門は他を救うためにはたらき出るものであるから出門、合わせて入出二門という。

曇鸞大師は、天親菩薩の示された奢摩他毘婆舎那の行としての作願・観察中心の高度な修行法である止観行を、五念門の讃歎門における口業の称名に着目して、凡夫相応の称名(讃歎門)を中心として五念門を領解され、

かの無礙光如来の名号は、よく衆生の一切の無明を破し、よく衆生の一切の志願を満てたまふ」(論註 P.103)

と、衆生の無明を破し往生の志願を満たすとされた所以である。これを『大経』の四十八願の本願力による凡夫相応の速やかな往生行であるとみられ、このうちの三願を取り出して証明された。往生の「因」である十念の念仏は第十八願力によって、往生の「果」たる正定と滅度は第十一願力によって、浄土の菩薩の還相第二十二願力によって、それぞれ成就せしめられるとみられたのである。 →三願的証 (論註 P.155)

善導大師は『往生礼讃』の五念門で、作願(止)と観察(観)を入れ替えている。止は奢摩他(シャマタ)(心を静め止める禅定)、観は毘鉢舎那(ビバシャナ)(止と観によって発す不動の智慧により真理を観察する)である。この作願と観察を入れ替えることによって、聖道門の高度な修行体系である止観行ではない凡夫の五念門という意味を表わそうとされたのであろう。(往生礼讃 P.655)

源信僧都は『安楽集』は見ておられたが『論註』は『安楽集』の引用でしか見ておられなかったといわれる。『往生要集』「第四 正修念仏門」の五念門釈では『論註』の五念門と違い、作願を菩提心を発すことであると釈されていた。(要集 P.902)

御開山は『論註』の覈求其本釈を通して、それまで浄土願生者の修める行とされていた五念門を、法蔵菩薩の所修の行であるとされ、阿弥陀仏の名号には五念門の功徳が具わっているとされ『入出二門偈」で、

願力成就を五念と名づく、仏をしていはばよろしく利他といふべし。衆生をしていはば他利といふべし。まさに知るべし、いままさに仏力を談ぜんとす。(二門 P.548)

と、願力成就を五念門であるとされた。それ故に『論註」では「云何が廻向する」とある文を「いかんが回向したまへる」等々と敬語で訓じて法蔵菩薩の所修とされておられる。それは『論註』の「今将談仏力。是故以利他言之(いままさに仏力を談ぜんとす、このゆゑに利他をもつてこれをいふ)」の「覈求其本釈(かくぐごほんしゃく)」の文によって、仏力(本願力)を談する他利利他の深義の深意を読み取られたからであった。

他利利他の深義