「七祖-補註1」の版間の差分
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- 1 阿弥陀仏
阿弥陀仏とは、 大悲の本願をもって一切衆生を平等に救済する極楽浄土の仏陀の名である。 阿弥陀は梵語アミターバ (Amitābha) およびアミターユス (Amitāyus) の音写に由来するもので、 アミターバは無量光 (無限の光明をもつもの)、 アミターユスは無量寿 (無限の寿命をもつもの) と訳される。 無量光とは仏の救いの空間的無辺性をあらわすものであり、 無量寿とは時間的無限性をあらわすものである。 すなわち、 空間的時間的な限定を超えて、 あらゆる衆生をもらさず救うという意がこの阿弥陀という名に示されているのである。
『大経』等によると、 久遠の昔、 世自在王仏のもとで一人の国王が出家して 「法蔵」 と名のり、 一切衆生を平等に救おうとして四十八の大願をおこし、 兆載永劫 (はかりしれない長い時間) の修行を経て、 今から十劫の昔に本願を成就し阿弥陀仏と号して、 現に西方の浄土で説法し衆生を救済しているという。 浄土教では、 この本願成就の阿弥陀仏を十方衆生の救済者として「仰信」するのである。
曇鸞大師はこの阿弥陀仏を法性法身・方便法身の二種法身説、 および実相身・為物身の二身説で説明している。 二種法身説でいう法性法身とは、 真如法性のさとりそのものである仏身という意で、 人間の認識を超えた無色無形無相の絶対的な真理のことをいう。 この法性法身が具体的なかたちをとってあらわれた仏身がもう一つの方便法身である。 方便とは『論註』(下 一四六) に 「正直を方といふ。 外己を便といふ」 というように、 かたよりなくすべての衆生をあわれみ、 己を捨てて救いとる大悲のはたらきを意味している。 したがって、 方便法身とは衆生を救済するためにかたちあるものとしてあらわれた仏身であるということができよう。 私どもの思慮を絶した法性法身の徳は、 このかたちある方便法身によってあらわしだされ、 大悲のはたらきを示していくことになるのである。 曇鸞大師はこの法性法身と方便法身の関係について、 「法性法身によりて方便法身を生ず。 方便法身によりて法性法身を出す。 この二の法身は異にして分つべからず。 一にして同ずべからず」 (同・下 一三九) と述べている。 法性法身なくして方便法身はなく、 方便法身なくして法性法身はない。 両者は二でありながら異なるものではなく、 一でありながら同じものではない。 曇鸞大師は二種の法身の関係をこのように不一不二なるものとし、 一阿弥陀仏のありように二面があることを明らかにされたのである。
実相身・為物身の二身説は方便法身の性格をさらに究明しようとしたものである。 実相身とは究竟の真理であるところの真如実相にかなった自利円満の身、 為物身とは 「物」 (衆生のこと) のために利益をほどこす利他円満の身である。 阿弥陀仏はこの二身の徳を具足する仏であるが、 それは仏身の全体を指して実相身とし、 同時にまた為物身とするものであって、 仏身を両分して自利の面を実相身、 利他の面を為物身とするものではない。 曇鸞大師はこの二種具足を示すことによって、 実相の理にかなった阿弥陀仏の正覚がそのまま全体、 衆生のためのものであることを明らかにした。 すなわち、 阿弥陀仏の正覚は単に仏みずからのためのものではなく、 衆生救済のために成就されたものであることをこの二身説によって示されたのである。
道綽、 善導両師の時代、 聖道の諸師は阿弥陀仏を応化身 (衆生の根機に応じて仮にあらわれた仏身、 報身より低位の仏) とみる説を立てていた。 道綽禅師、 善導大師はこれに反論し、 阿弥陀仏が報身であることを明らかにした。 道綽禅師は『安楽集』(上 一九一) 第一大門において 「現在の弥陀はこれ報仏、 極楽宝荘厳国はこれ報土なり。 しかるに古旧あひ伝へて、 みな阿弥陀仏はこれ化身、 土もまたこれ化土なりといへり。 これを大失となす」 といい、『大乗同性経』を引用して、 浄土における成仏は報身、 穢土における成仏は化身であると示し、 阿弥陀仏は浄土において成仏したのであるから報身であると論じている。 善導大師は 「玄義分 三二六」 においてこの説をうけながらも、 さらに『大経』によって 「また『無量寿経』にのたまはく、 〈法蔵比丘、 世饒王仏の所にましまして菩薩の道を行じたまひし時、 四十八願を発したまへり。 一々の願にのたまはく、 もしわれ仏を得たらんに、 十方の衆生、 わが名号を称してわが国に生ぜんと願ぜんに、 下十念に至るまで、 もし生ぜずは、 正覚を取らじ〉と。 いますでに成仏したまへり。 すなはちこれ酬因の身なり」 といい、 阿弥陀仏は本願の因に報いあらわれた酬因の身であるから報身であると論定している。 善導大師はこのほかにも『観経』上輩の文にもとづいて、 阿弥陀仏は化仏とともに来迎するから報身であるとも論じているが、 かなめとなるのは先の『大経』による論証であり、 法蔵因位の誓願に酬報する義をもって阿弥陀仏を報身と定めるあかしとするのである。