「凡情を遮せず」の版間の差分
出典: 浄土真宗聖典『ウィキアーカイブ(WikiArc)』
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− | + | 凡夫の浄土に対する情(こころ、おもひ)をあながちに遮蔽しないこと。この世の凡夫においては、浄土に対しての凡夫の情念や情感をむやみにさえぎる(遮)ことはしないという意。想いたいように思っていればよいということ。 | |
覚如上人の『口伝鈔』にあるように、「まづ凡夫は、ことにおいてつたなく愚かなり」([[口伝鈔#no17|口伝鈔 P.904]])である。<br /> | 覚如上人の『口伝鈔』にあるように、「まづ凡夫は、ことにおいてつたなく愚かなり」([[口伝鈔#no17|口伝鈔 P.904]])である。<br /> | ||
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さて、あらゆる諸仏が阿弥陀仏の本願を讃嘆する『阿弥陀経』[[仏説_阿弥陀経|(*)]]によれば、浄土(極楽)は太陽の沈む西方十万億仏土を超えた処(ところ)にある阿弥陀如来の仏国である。そして覚りの世界であるにも関わらず、七宝の池があり楼閣あり、車輪のごとき蓮華が咲き誇る国だと説かれてある。もちろんさとりの{{DotUL|象徴表現}}ではあるのだが、実に凡夫向けの世界が説かれてある。<br /> | さて、あらゆる諸仏が阿弥陀仏の本願を讃嘆する『阿弥陀経』[[仏説_阿弥陀経|(*)]]によれば、浄土(極楽)は太陽の沈む西方十万億仏土を超えた処(ところ)にある阿弥陀如来の仏国である。そして覚りの世界であるにも関わらず、七宝の池があり楼閣あり、車輪のごとき蓮華が咲き誇る国だと説かれてある。もちろんさとりの{{DotUL|象徴表現}}ではあるのだが、実に凡夫向けの世界が説かれてある。<br /> | ||
『阿弥陀経』では「<kana>倶会一処(くえ-いっしょ)</kana>(ともに一処に会する)」と、先立った懐かしい人々と、また会える世界が用意してあるのですよと告げる。本来なら浄土は「[[無生の生]]」といわれる世界なのであるが、凡夫にも理解出来るような説き方がされているのは大悲の極みであろう。如来の智慧が、智慧そのままで大悲の顕現として説かれているのが、浄土教の浄土である。<br /> | 『阿弥陀経』では「<kana>倶会一処(くえ-いっしょ)</kana>(ともに一処に会する)」と、先立った懐かしい人々と、また会える世界が用意してあるのですよと告げる。本来なら浄土は「[[無生の生]]」といわれる世界なのであるが、凡夫にも理解出来るような説き方がされているのは大悲の極みであろう。如来の智慧が、智慧そのままで大悲の顕現として説かれているのが、浄土教の浄土である。<br /> | ||
− | + | 太陽の沈む西方に、阿弥陀さまのお覚りの世界があるのですよ。なんまんだぶを称える者は、やがてこの命、終わった時にその世界へ[[往生]]して、今度という今度は、自分のことばかりで悩み苦しむのではなく、あらゆる[[衆生]](生きとし生ける者)に寄り添って、お念仏しましょうとのお勧めが出来る者になるのですよというのが浄土真宗のご法義である。 | |
凡夫の想い、「凡情を遮せず」とは、このような凡夫のおもいを遮すのではなく、「遮せず」というご法義である。仏陀のさとりの世界には凡夫は居ないのであるが、往生を願う者には、想うように思わせておけということである。これを古来から「凡情を遮せず」というのであった。<br /> | 凡夫の想い、「凡情を遮せず」とは、このような凡夫のおもいを遮すのではなく、「遮せず」というご法義である。仏陀のさとりの世界には凡夫は居ないのであるが、往生を願う者には、想うように思わせておけということである。これを古来から「凡情を遮せず」というのであった。<br /> | ||
− | + | ただ、浄土はさとりの界(さかい)であるから、凡情の凡夫だらけの界ではない。その意を、先人は、真実のさとりの浄土へ往生すれば「凡情に応ぜず」という世界であると示して下さった。「凡情を遮せず、凡情に応ぜず」である。浄土は凡夫の情に応じた世界ではない、阿弥陀仏のさとりの[[無生の生]]の世界だからである。<br /> | |
曇鸞大師はこの意を巧みな譬喩で示して下さった。 | 曇鸞大師はこの意を巧みな譬喩で示して下さった。 | ||
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− | また氷の上に火を燃くに、火猛ければすなはち氷解く。氷解くればすなはち火滅するがごとし。かの下品の人、法性無生を知らずといへども、ただ仏名を称する力をもつて往生の意をなして、かの土に生ぜんと願ずるに、かの土はこれ無生の界なれば、見生の火、自然に滅するなり。([[浄土論註_(七祖)#P--126|論註P.126]]) | + | :かの清浄仏土に阿弥陀如来[[無上宝珠|無上の宝珠]]まします。無量の荘厳功徳成就の帛をもつて裹(つつ)みて、これを往生するところのひとの心水に投ぐれば、あに生見を転じて無生の智となすことあたはざらんや。 |
+ | : また氷の上に火を燃くに、火猛ければすなはち氷解く。氷解くればすなはち火滅するがごとし。かの下品の人、法性無生を知らずといへども、ただ仏名を称する力をもつて往生の意をなして、かの土に生ぜんと願ずるに、かの土はこれ無生の界なれば、見生の火、自然に滅するなり。([[浄土論註_(七祖)#P--126|論註P.126]]) | ||
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− | + | 見生の火とは浄土を実体とみる凡情であるが、「ただ仏名(なんまんだぶ)を称する力をもつて往生の意」をなす者は、凡夫の抱く見生の火は浄土に往生すれば自然に滅するのである。浄土真宗のご法義は、本願に選択された、なんまんだぶを称えて浄土に往生して生死を超える仏法なのである。<br /> | |
あなたの信心も、あなたの安心も真実ではないから、阿弥陀仏の選択された名号(なんまんだぶ)を称えて、我が国に生まれんと欲(おも)えというのが、御開山がお示しくださったご法義である。 | あなたの信心も、あなたの安心も真実ではないから、阿弥陀仏の選択された名号(なんまんだぶ)を称えて、我が国に生まれんと欲(おも)えというのが、御開山がお示しくださったご法義である。 | ||
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2018年5月20日 (日) 13:20時点における版
ぼんじょう-を-しゃ-せず
凡夫の浄土に対する情(こころ、おもひ)をあながちに遮蔽しないこと。この世の凡夫においては、浄土に対しての凡夫の情念や情感をむやみにさえぎる(遮)ことはしないという意。想いたいように思っていればよいということ。
覚如上人の『口伝鈔』にあるように、「まづ凡夫は、ことにおいてつたなく愚かなり」(口伝鈔 P.904)である。
この凡夫の為に、法然聖人は『選択本願念仏集』で、
ただ念仏の力のみありて、よく重罪を滅するに堪へたり。ゆゑに極悪最下の人のために極善最上の法を説くところなり。例するに、かの無明淵源の病は、中道腑臓の薬にあらずはすなはち治することあたはざるがごとし。(選択集 P.1258)
と、極善最上の法が、なんまんだぶを称えるご法義であるとされた。
そもそも、御開山の師である法然聖人が開宗された「浄土宗」とは「往生浄土宗」の意である。往生の語を略して浄土宗というのであった。御開山はこの法然聖人の開示された浄土宗の真実の義を展開して「浄土真宗」とされたのであった。法然聖人の説かれた浄土宗の真実の意味を洞察して、阿弥陀如来の本願力回向の宗旨を御開山は浄土真宗と名づけられたのである。
浄土の真実を宗とするとは、自らの内に全く真実が存在しないということの反顕である。その真実の欠片すら持ち合わせていない者が、阿弥陀如来のさとりの顕現である浄土が解るはずがないから凡情なのである。
さて、あらゆる諸仏が阿弥陀仏の本願を讃嘆する『阿弥陀経』(*)によれば、浄土(極楽)は太陽の沈む西方十万億仏土を超えた処(ところ)にある阿弥陀如来の仏国である。そして覚りの世界であるにも関わらず、七宝の池があり楼閣あり、車輪のごとき蓮華が咲き誇る国だと説かれてある。もちろんさとりの象徴表現ではあるのだが、実に凡夫向けの世界が説かれてある。
『阿弥陀経』では「
太陽の沈む西方に、阿弥陀さまのお覚りの世界があるのですよ。なんまんだぶを称える者は、やがてこの命、終わった時にその世界へ往生して、今度という今度は、自分のことばかりで悩み苦しむのではなく、あらゆる衆生(生きとし生ける者)に寄り添って、お念仏しましょうとのお勧めが出来る者になるのですよというのが浄土真宗のご法義である。
凡夫の想い、「凡情を遮せず」とは、このような凡夫のおもいを遮すのではなく、「遮せず」というご法義である。仏陀のさとりの世界には凡夫は居ないのであるが、往生を願う者には、想うように思わせておけということである。これを古来から「凡情を遮せず」というのであった。
ただ、浄土はさとりの界(さかい)であるから、凡情の凡夫だらけの界ではない。その意を、先人は、真実のさとりの浄土へ往生すれば「凡情に応ぜず」という世界であると示して下さった。「凡情を遮せず、凡情に応ぜず」である。浄土は凡夫の情に応じた世界ではない、阿弥陀仏のさとりの無生の生の世界だからである。
曇鸞大師はこの意を巧みな譬喩で示して下さった。
見生の火とは浄土を実体とみる凡情であるが、「ただ仏名(なんまんだぶ)を称する力をもつて往生の意」をなす者は、凡夫の抱く見生の火は浄土に往生すれば自然に滅するのである。浄土真宗のご法義は、本願に選択された、なんまんだぶを称えて浄土に往生して生死を超える仏法なのである。
あなたの信心も、あなたの安心も真実ではないから、阿弥陀仏の選択された名号(なんまんだぶ)を称えて、我が国に生まれんと欲(おも)えというのが、御開山がお示しくださったご法義である。
本願力回向の他力とは、私が選んだ私の行(行為)ではなく、あらゆる生きとし生ける者を、我が国に生まれさせんと立ち上がった阿弥陀さまの願心に立脚する法義であったからこそ、私の側の凡情には意味を持たせないから「凡情を遮せず」なのであった。
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