「補註6」の版間の差分
出典: 浄土真宗聖典『ウィキアーカイブ(WikiArc)』
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− | 正定聚とは、<kana>正(まさ)</kana>しく仏になることに<kana>決定(けつじょう)</kana>しているなかまという意味である。かならず仏になるということは、言葉をかえれば決して退転しないということであるので、不退転ともいう。親鸞聖人はこのような正定聚は<kana>平生(へいぜい)</kana> | + | 正定聚とは、<kana>正(まさ)</kana>しく仏になることに<kana>決定(けつじょう)</kana>しているなかまという意味である。かならず仏になるということは、言葉をかえれば決して退転しないということであるので、不退転ともいう。親鸞聖人はこのような正定聚は<kana>平生(へいぜい)</kana>の[[信の一念]]に与えられる<kana>[[利益]](りやく)</kana>であるので、これを[[現生正定聚]]といわれた。このようにかならず往生し成仏することに決定するのは、臨終のときではなく平生(ふだん)であるので、これをまた<kana>[[平生業成]](へいぜいごうじょう)</kana>ともいう。 |
衆生が阿弥陀仏によって[[救済]]され、現生において与えられる[[利益]]について親鸞聖人は、『文類聚鈔』に、「また現生無量の徳を<kana>獲(う)</kana>」([[浄文#P--486|486]]) と示され、「信巻([[信巻末#P--251|末 251]]) には具体的に、「現生に十種の益を獲」といい[[現生十益]]が示されているが、これらはいずれも[[正定聚]]に入るという利益におさまるものである。 | 衆生が阿弥陀仏によって[[救済]]され、現生において与えられる[[利益]]について親鸞聖人は、『文類聚鈔』に、「また現生無量の徳を<kana>獲(う)</kana>」([[浄文#P--486|486]]) と示され、「信巻([[信巻末#P--251|末 251]]) には具体的に、「現生に十種の益を獲」といい[[現生十益]]が示されているが、これらはいずれも[[正定聚]]に入るという利益におさまるものである。 |
2018年5月22日 (火) 18:09時点における版
補 註 |
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阿弥陀仏 |
往生・真実証・浄土 |
機・衆生 |
具縛の凡愚・屠沽の下類 |
業・宿業 |
正定聚 |
信の一念・聞 |
真実教 |
旃陀羅 |
大行・真実行 |
大信・真実信 |
他力・本願力回向 |
同朋・同行 |
女人・根欠・五障三従 |
方便・隠顕 |
菩薩 |
本願 |
→七祖 補註へ |
6
正定聚とは、
衆生が阿弥陀仏によって救済され、現生において与えられる利益について親鸞聖人は、『文類聚鈔』に、「また現生無量の徳を
本願を信じ念仏するものは阿弥陀仏の本願に随順し、釈尊の教説に随順し、諸仏の教意に随順するものであるから、真の仏弟子といわれ、また
すなわち現に
等覚は平等
『浄土真宗聖典(注釈版)七祖篇』本願寺出版社
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