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「能詮」の版間の差分

出典: 浄土真宗聖典『ウィキアーカイブ(WikiArc)』

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のうせん
 
のうせん
  
 「所詮(しょせん)」の対語として用いられる仏教用語。詮はあらわすこと。経典の語句や文章などのように教法などを表す側を「能詮(のうせん)」といい、それによって表された意義内容を「所詮」といふ。
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 「所詮(しょせん)」の対語として用いられる仏教用語。詮はあらわすこと。経典の語句や文章などのように教法などを表す側を「[[能詮]](のうせん)」といい、それによって表された意義内容を「[[所詮]]」といふ。
 
「能」は「~ する」という能動を示し、「所」は「~ される」という受身を示す語である。
 
「能」は「~ する」という能動を示し、「所」は「~ される」という受身を示す語である。
 
たとえば行為について言えば、はたらきかける主体が「能作」であり、その行いの仕業や振る舞いが「所作」である。→[[能所]]<br />
 
たとえば行為について言えば、はたらきかける主体が「能作」であり、その行いの仕業や振る舞いが「所作」である。→[[能所]]<br />
『大無量寿経』は真実を表す「能詮の言教」(言語によって表現された教え)であり、「所詮の法義」(その教えによってあらわされている内容)の'''[[法]]'''は「行巻」であらわされている〔なんまんだぶ〕と称える「[[大行]]」である。この大行を[[往生]][[業因]][[信知]]することを[[信心正因]]といふ。→[[信心正因]]
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『大無量寿経』は真実を表す「能詮の言教」(言語によって表現された教え)であり、「所詮の法義」(その教えによってあらわされている内容)の'''[[法]]'''は「行巻」であらわされている〔なんまんだぶ〕と称える「[[大行]]」である。この大行を[[往生]]の「[[業因]]」と[[信知]]することを[[信心正因]]といふ。→[[信心正因]]
  
*この所詮を「詮ずるところ」と読んで〈つまるところ〉の意味に用い、「詮ずるに」と言って〈つきつめて考えてみると〉の意味に用いている。
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*[[所詮]]を「詮ずるところ」と読んで〈つまるところ〉の意味に用い、「詮ずるに」と言って〈つきつめて考えてみると〉の意味に用いている。
 
:→[[所詮]]
 
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:→[[能所]]
 
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2018年6月7日 (木) 12:39時点における最新版

のうせん

 「所詮(しょせん)」の対語として用いられる仏教用語。詮はあらわすこと。経典の語句や文章などのように教法などを表す側を「能詮(のうせん)」といい、それによって表された意義内容を「所詮」といふ。 「能」は「~ する」という能動を示し、「所」は「~ される」という受身を示す語である。 たとえば行為について言えば、はたらきかける主体が「能作」であり、その行いの仕業や振る舞いが「所作」である。→能所
『大無量寿経』は真実を表す「能詮の言教」(言語によって表現された教え)であり、「所詮の法義」(その教えによってあらわされている内容)のは「行巻」であらわされている〔なんまんだぶ〕と称える「大行」である。この大行を往生の「業因」と信知することを信心正因といふ。→信心正因

  • 所詮を「詮ずるところ」と読んで〈つまるところ〉の意味に用い、「詮ずるに」と言って〈つきつめて考えてみると〉の意味に用いている。
所詮
能所
能念所念
能生の因・所生の縁
安心論題/信心正因