「解信」の版間の差分
出典: 浄土真宗聖典『ウィキアーカイブ(WikiArc)』
9行目: | 9行目: | ||
と、愚直に〔なんまんだぶ〕を称えるだけで別の[[子細]]はないといわれていた。 | と、愚直に〔なんまんだぶ〕を称えるだけで別の[[子細]]はないといわれていた。 | ||
:→[[仰信]] | :→[[仰信]] | ||
+ | :→[[因分可説/果分不可説]] | ||
:→[[義なきを義とす]] | :→[[義なきを義とす]] | ||
---- | ---- |
2018年6月19日 (火) 21:39時点における版
げしん
教法をそのまま仰ぎ受け容れないで、教法の道理を論理的に理解して信じるのを解信といい、ひたすら〔阿弥陀仏の信(まこと)〕を仰ぐことを「
法然聖人は『西方指南鈔』所収の「浄土宗大意」で、
- 聖道門の修行は、智慧をきわめて生死をはなれ、浄土門の修行は、愚痴にかへりて極楽にむまる。→「浄土宗大意」p.219
といわれていた。聖道門を解信、浄土門を仰信であるとみられていたのであろう。「智慧第一の法然房」とたたえられた法然聖人であったが、仏果を得る成仏道については「愚痴にかへりて極楽に生まる」と選択本願による仰信の浄土門を示されていた[1]。
御開山は、その法然聖人の示して下さった念仏往生の教えを『歎異抄』では、
- 親鸞におきては、ただ念仏して弥陀にたすけられまゐらすべしと、よきひと(法然)の仰せをかぶりて信ずるほかに別の子細なきなり。
と、愚直に〔なんまんだぶ〕を称えるだけで別の子細はないといわれていた。
- →仰信
- →因分可説/果分不可説
- →義なきを義とす