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「自覚」の版間の差分

出典: 浄土真宗聖典『ウィキアーカイブ(WikiArc)』

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じかく
 
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 近年、浄土真宗の信心を、[[自覚]](自意識)という言葉で表現する僧俗が多い.
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 近年、浄土真宗の信心を、[[自覚]](自意識)<ref>自分自身のあり方を反省し、自分が何であるかを明瞭(めいりょう)に意識にもたらすこと。自己意識、自己認識、自己反省などとほぼ同義であるが、「自覚」には仏教用語の転用からくる特有のニュアンスが付きまとう。ソクラテスが古代ギリシアの格言「汝(なんじ)自身を知れ」を自己の課題としたように、自覚は哲学にとって出発点でもあり目標でもあった。しかし自覚とは、自分が自分を知ることである以上、知る自分と知られる自分とは、区別されねばならないと同時に、同一の自分でもあり続けねばならない。ここに、自己の分裂と統一という反省にまつわるパラドックスが生ずる。〔追記:このような自己を思索の出発点とする「われ思惟す、ゆえにわれあり」という西欧の思索の原理に対して仏教では「無我」を説くのである。浄土真宗ではそれを「捨自帰他」という。それは知ろうとする者は、既に知られる者によって知られているという意味であった。それが[[第十八願]]の「もし生ぜずは、正覚を取らじ(若不生者 不取正覚)」という生仏一如の教説であった。〕<br>
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 わが国では西田幾多郎(きたろう)が「自覚の立場」を提唱して、この困難に挑んだ。彼によれば、主客未分の知るものと知られるものとが一つである直観的意識と、それを外側から眺める反省的意識とが内的に結合され、統一された状態、それが自覚の立場にほかならない。[野家啓一]
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『『自覚に於ける直観と反省』(『西田幾多郎全集 第2巻』所収・1950・岩波書店)』
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出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)</ref>という言葉で表現する僧俗が多い。
 
元来[[自覚]]という語は、「自覚・覚他・覚行窮満、これを名づけて仏となす」([[観経疏 玄義分 (七祖)#no6|玄義分 P.301]])とあるように、自ら迷いを断って悟りを開くことを意味する仏教語である。しかし、世間で使われている[[自覚]]とは、 自分自身の置かれている状態や自分の価値を知るという意味で使われているので、[[浄土真宗]]の[[他力]]の[[信心]]の表現として濫用すべきではない。もし自覚という語を使うなら仏教語としての意味と世俗語での意味の違いを示して使用すべきである。<br />
 
元来[[自覚]]という語は、「自覚・覚他・覚行窮満、これを名づけて仏となす」([[観経疏 玄義分 (七祖)#no6|玄義分 P.301]])とあるように、自ら迷いを断って悟りを開くことを意味する仏教語である。しかし、世間で使われている[[自覚]]とは、 自分自身の置かれている状態や自分の価値を知るという意味で使われているので、[[浄土真宗]]の[[他力]]の[[信心]]の表現として濫用すべきではない。もし自覚という語を使うなら仏教語としての意味と世俗語での意味の違いを示して使用すべきである。<br />
 
善導大師が浄土教に於ける信心を「信知」という言葉を示して下さったのであるから、[[自覚]]という言葉より、[[信知]]という表現で浄土真宗のご信心を語るべきであろう。
 
善導大師が浄土教に於ける信心を「信知」という言葉を示して下さったのであるから、[[自覚]]という言葉より、[[信知]]という表現で浄土真宗のご信心を語るべきであろう。

2018年9月15日 (土) 22:29時点における版

じかく

 近年、浄土真宗の信心を、自覚(自意識)[1]という言葉で表現する僧俗が多い。 元来自覚という語は、「自覚・覚他・覚行窮満、これを名づけて仏となす」(玄義分 P.301)とあるように、自ら迷いを断って悟りを開くことを意味する仏教語である。しかし、世間で使われている自覚とは、 自分自身の置かれている状態や自分の価値を知るという意味で使われているので、浄土真宗他力信心の表現として濫用すべきではない。もし自覚という語を使うなら仏教語としての意味と世俗語での意味の違いを示して使用すべきである。
善導大師が浄土教に於ける信心を「信知」という言葉を示して下さったのであるから、自覚という言葉より、信知という表現で浄土真宗のご信心を語るべきであろう。 以下のご和讃の信知を、自覚と読み変えてみれば、その違和感が判るであろう。

(32)

本願円頓一乗は
 逆悪摂すと信知して
 煩悩・菩提体無二
 すみやかにとくさとらしむ (曇鸞讃

(73)

煩悩具足と信知して
 本願力に乗ずれば
 すなはち穢身すてはてて
 法性常楽証せしむ (善導讃
信知

  1. 自分自身のあり方を反省し、自分が何であるかを明瞭(めいりょう)に意識にもたらすこと。自己意識、自己認識、自己反省などとほぼ同義であるが、「自覚」には仏教用語の転用からくる特有のニュアンスが付きまとう。ソクラテスが古代ギリシアの格言「汝(なんじ)自身を知れ」を自己の課題としたように、自覚は哲学にとって出発点でもあり目標でもあった。しかし自覚とは、自分が自分を知ることである以上、知る自分と知られる自分とは、区別されねばならないと同時に、同一の自分でもあり続けねばならない。ここに、自己の分裂と統一という反省にまつわるパラドックスが生ずる。〔追記:このような自己を思索の出発点とする「われ思惟す、ゆえにわれあり」という西欧の思索の原理に対して仏教では「無我」を説くのである。浄土真宗ではそれを「捨自帰他」という。それは知ろうとする者は、既に知られる者によって知られているという意味であった。それが第十八願の「もし生ぜずは、正覚を取らじ(若不生者 不取正覚)」という生仏一如の教説であった。〕
     わが国では西田幾多郎(きたろう)が「自覚の立場」を提唱して、この困難に挑んだ。彼によれば、主客未分の知るものと知られるものとが一つである直観的意識と、それを外側から眺める反省的意識とが内的に結合され、統一された状態、それが自覚の立場にほかならない。[野家啓一] 『『自覚に於ける直観と反省』(『西田幾多郎全集 第2巻』所収・1950・岩波書店)』 出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)