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出典: 浄土真宗聖典『ウィキアーカイブ(WikiArc)』

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御開山は『愚禿鈔』上で『往生礼讃』の「前念命終 後念即生彼国(前念に命終して後念にすなはちかの国に生じ)」([[往生礼讃 (七祖)#P--660|往生礼讃 P.660]]) の文を取意して、
 
御開山は『愚禿鈔』上で『往生礼讃』の「前念命終 後念即生彼国(前念に命終して後念にすなはちかの国に生じ)」([[往生礼讃 (七祖)#P--660|往生礼讃 P.660]]) の文を取意して、
 
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:信受本願前念命終[即入正定聚之数文]
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:真実浄信心は、<sub>内因なり。</sub> [[摂取不捨]]は、<sub>外縁なり。</sub>
:即得往生後念即生{即時入必定文 又名必定菩薩也文}
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:即得往生は、'''[[後念即生]]'''なり。<sub>「即の時必定に入る」と。文 また必定の菩薩と名づくるなりと。文</sub>
::即得往生は、'''[[後念即生]]'''なり。[即の時[[必定]]に入るとの文。また「[[必定の菩薩]]と名づくるなりの文」([[愚禿上#no28|愚禿上 P.509]])  
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:他力金剛心なりと、知るべし。
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:すなはち弥勒菩薩に同じ。<sub>自力金剛心なりと、知るべし。『大経』には「[[次如弥勒]]」とのたまへり。文</sub> ([[愚禿上#no28|愚禿上 P.509]])  
 
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とされておられる。『往生礼讃』の当面では、娑婆の前念と浄土の後念の二念の意である。御開山は、この『往生礼讃』の意を転じて、本願を信受した時に、[[即]](そく)、古い私は死んだ(前念命終)のであり、[[即得往生]]とは、[[即]](そく)、新しく阿弥陀如来の浄土へ生まれて往く生(いのち)が始まった(後念即生)のだとされるのであった。曽我量深師は「信に死し願に生きよ」という言葉で表現されていた。<br />
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とされておられる。『往生礼讃』の当面では、娑婆の前念と浄土の後念の二念の意である。御開山は、この『往生礼讃』の意を転じて、本願を信受した時に、[[即]](そく)、古い私は死んだ(前念命終)のであり、[[即得往生]]とは、[[即]](そく)、新しく阿弥陀如来の浄土へ生まれて往く生(いのち)が始まった(後念即生)のだとされるのであった。大谷派の曽我量深師は「信に死し願に生きよ」という言葉で表現されていた。<br />
 
なお、ここでの前念と後念は、本願成就文の「聞其名号、信心歓喜、乃至一念(その名号を聞きて、信心歓喜せんこと乃至一念せん)」の一念の信心歓喜の事態(信益同時)を意味する表現であり、善導大師のような前念と後念の二念ではない。これを前後二念と取り違えると現生往生説になってしまうのである。<br />
 
なお、ここでの前念と後念は、本願成就文の「聞其名号、信心歓喜、乃至一念(その名号を聞きて、信心歓喜せんこと乃至一念せん)」の一念の信心歓喜の事態(信益同時)を意味する表現であり、善導大師のような前念と後念の二念ではない。これを前後二念と取り違えると現生往生説になってしまうのである。<br />
 
浄土真宗での回心とは、阿弥陀仏の[[利他]]のご本願を受け入れたご[[信心]]の人は、もう[[自力]](自利)の命が死んで、阿弥陀仏に包摂された新しい[[他力]]の命が始まったのだというのである。
 
浄土真宗での回心とは、阿弥陀仏の[[利他]]のご本願を受け入れたご[[信心]]の人は、もう[[自力]](自利)の命が死んで、阿弥陀仏に包摂された新しい[[他力]]の命が始まったのだというのである。

2018年12月27日 (木) 17:21時点における版

回心

恵信尼さまはこちら。→恵信

 この場合は悪心を改悔する回心懺悔の意。(歎異抄 P.848)

 心をひるがえすこと。

Ⅰ 悪心を改めて仏の教えに帰すること。回心懺悔のこと。
Ⅱ 自力の心を捨てて本願他力に帰すること。

『唯信鈔文意』には「回心といふは自力の心をひるがへし、すつるをいふなり」(唯文 P.707)とある。

出典(教学伝道研究センター編『浄土真宗聖典(注釈版)第二版』本願寺出版社
『浄土真宗聖典(注釈版)七祖篇』本願寺出版社

区切り線以下の文章は各投稿者の意見であり本願寺派の見解ではありません。

回心:

 自己の描いていた価値判断の体系(自己の存在理解の枠組み)の世界が崩壊し、まったく新しい精神世界と邂逅することによって存在の捉え方の構造が変化すること。仏教では、古層といわれる仏典の『スッタニパータ』には「蛇が脱皮して旧い皮を捨て去るようなものである」と「旧い皮を捨て去る」とある。[1]
この意味では、仏教における回心とは、古い自己が死んで新しいわたくしが生まれたということである。
御開山は『愚禿鈔』上で『往生礼讃』の「前念命終 後念即生彼国(前念に命終して後念にすなはちかの国に生じ)」(往生礼讃 P.660) の文を取意して、

真実浄信心は、内因なり。 摂取不捨は、外縁なり。
本願を信受するは、前念命終なり。「すなはち正定聚の数に入る」と。文
即得往生は、後念即生なり。「即の時必定に入る」と。文 また必定の菩薩と名づくるなりと。文
他力金剛心なりと、知るべし。
すなはち弥勒菩薩に同じ。自力金剛心なりと、知るべし。『大経』には「次如弥勒」とのたまへり。文 (愚禿上 P.509)

とされておられる。『往生礼讃』の当面では、娑婆の前念と浄土の後念の二念の意である。御開山は、この『往生礼讃』の意を転じて、本願を信受した時に、(そく)、古い私は死んだ(前念命終)のであり、即得往生とは、(そく)、新しく阿弥陀如来の浄土へ生まれて往く生(いのち)が始まった(後念即生)のだとされるのであった。大谷派の曽我量深師は「信に死し願に生きよ」という言葉で表現されていた。
なお、ここでの前念と後念は、本願成就文の「聞其名号、信心歓喜、乃至一念(その名号を聞きて、信心歓喜せんこと乃至一念せん)」の一念の信心歓喜の事態(信益同時)を意味する表現であり、善導大師のような前念と後念の二念ではない。これを前後二念と取り違えると現生往生説になってしまうのである。
浄土真宗での回心とは、阿弥陀仏の利他のご本願を受け入れたご信心の人は、もう自力(自利)の命が死んで、阿弥陀仏に包摂された新しい他力の命が始まったのだというのである。

凡数の摂
正定聚

  1. ニーチェには「脱皮できない蛇は滅びる」という言葉がある。