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「七深信」の版間の差分

出典: 浄土真宗聖典『ウィキアーカイブ(WikiArc)』

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しちじんしん
 
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  「散善義」の深心釈によって、深信の相を七種に分けて示す。([[愚禿下#P--522|愚禿下 P.521]])
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 「散善義」の深心釈によって、深信の相を七種に分けて示す。([[愚禿下#P--522|愚禿下 P.521]])
  
 
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「散善義」で深信を二種あげたあとで「又」という字によって深信を挙げられているのを七つに分けたもの。第一の機の深信を「自利の信心」とされておられるのは、第二の法の深信と一具でなければ自力の信になるとみられたのであろう。<br />
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「散善義」で深信を二種あげたあとで「又」という字によって深信を挙げられているのを七つに分けたもの。第一の機の深信を「自利の信心」とされておられるのは、第二の法の深信と一具でなければ自力の信になるとみられたのであろう。→[[自利の信心]]<br />
なお、第三の観経深信は「信巻」化巻」の両巻で引文されておられるが、第七の自心建立の深信は「化巻」のみで引文されておられる。「自心を建立」の語に自力の意をみられたから「化巻」で引文されたのであろう。
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なお、第三の「観経深信」と第四の「弥陀経深信」は真仮の[[隠顕]]が立つので「信巻」「化巻」の両巻で引文されておられるが、第七の自心建立の深信は「化巻」のみで引文されておられる。「自心を建立」の語に自力の意をみられたから「化巻」で引文されたのであろう。なお第六深信は〔なんまんだぶ〕という'''行を深信'''することを示しているから「信巻」で引文されたのであろう。『観経』の真実とは「名号付属釈」にある、
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:上来定散両門の益を説くといへども、仏の本願に望むるに、意、衆生をして一向にもつぱら弥陀仏の名を称せしむるにあり。([[観経疏 散善義 (七祖)#名号付属|散善義 P.500]])
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にあるからである。
 
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文の意を案ずるに、深信について七深信あり、六決定あり。
 
文の意を案ずるに、深信について七深信あり、六決定あり。

2019年1月17日 (木) 23:06時点における版

しちじんしん

 「散善義」の深心釈によって、深信の相を七種に分けて示す。(愚禿下 P.521)

出典(教学伝道研究センター編『浄土真宗聖典(注釈版)第二版』本願寺出版社
『浄土真宗聖典(注釈版)七祖篇』本願寺出版社

区切り線以下の文章は各投稿者の意見であり本願寺派の見解ではありません。

「散善義」で深信を二種あげたあとで「又」という字によって深信を挙げられているのを七つに分けたもの。第一の機の深信を「自利の信心」とされておられるのは、第二の法の深信と一具でなければ自力の信になるとみられたのであろう。→自利の信心
なお、第三の「観経深信」と第四の「弥陀経深信」は真仮の隠顕が立つので「信巻」「化巻」の両巻で引文されておられるが、第七の自心建立の深信は「化巻」のみで引文されておられる。「自心を建立」の語に自力の意をみられたから「化巻」で引文されたのであろう。なお第六深信は〔なんまんだぶ〕という行を深信することを示しているから「信巻」で引文されたのであろう。『観経』の真実とは「名号付属釈」にある、

上来定散両門の益を説くといへども、仏の本願に望むるに、意、衆生をして一向にもつぱら弥陀仏の名を称せしむるにあり。(散善義 P.500)

にあるからである。

文の意を案ずるに、深信について七深信あり、六決定あり。

七深信とは、
第一の深信は、「決定して自身を深信する」と、すなはちこれ自利の信心なり。
第二の深信は、「決定して乗彼願力を深信する」と、すなはちこれ利他の信海なり。
第三には、「決定して『観経』を深信す」と。
第四には、「決定して『弥陀経』を深信す」と。
第五には、「唯仏語を信じ決定して行による」と。
第六には、「この『経』(観経)によりて深信す」と。
第七には、「また深心の深信は決定して自を建立せよ」となり。(愚禿下 P.521)
観経疏』三心釈の分引
二種深信
自利の信心
欣慕の釈
第五