「因果撥無」の版間の差分
出典: 浄土真宗聖典『ウィキアーカイブ(WikiArc)』
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− | [[改邪鈔#no17|『改邪鈔』17]]では、通仏教([[聖道門]])の因果相順の理(因果の道理)のみを信じて阿弥陀仏の[[本願力]] | + | [[改邪鈔#no17|『改邪鈔』17]]では、通仏教([[聖道門]])の因果相順の理(因果の道理)のみを信じて阿弥陀仏の[[本願力]]の仏因仏果<ref>仏因仏果。[[因位]]の阿弥陀仏の[[兆載永劫]]の[[願行]]を'''因'''として衆生の往生成仏の'''果'''を得ること。例えば種を播けば実ができる、その実を種として播けば実ができるようなものである。</ref>を受け容れられない者を批判していた。 |
− | :おほよそ他力の一門においては、釈尊一代の説教にいまだその例なき[[通途]]の[[性相]]<ref> | + | :おほよそ他力の一門においては、釈尊一代の説教にいまだその例なき[[通途]]の[[性相]]<ref>[[通途]]の性相(しょうぞう)。仏教一般に通用する教義のこと。聖道諸宗の教学の意。この聖道門に対して浄土門の教相を[[別途]]といふ。</ref>をはなれたる[[言語道断]]の不思議なりといふは、[[凡夫]]の[[報土]]に生るるといふをもつてなり。もし因果相順の理〔因果の道理〕にまかせば、釈迦・弥陀・諸仏の御ほねをりたる他力の[[別途]]むなしくなりぬべし。そのゆゑは、たすけましまさんとする十方衆生たる凡夫、因果相順の理〔因果の道理〕に封ぜられて、[[別願所成の報土]]に凡夫生るべからざるゆゑなり。<br /> |
− | :いま報土得生の[[機]]にあたへまします仏智の一念は、すなはち'''仏因'''なり。かの仏因にひかれてうるところの[[定聚の位]]、[[滅度]]に至るといふは、すなはち'''仏果'''なり。この'''仏因仏果'''においては、[[他力]]より成ずれば、さらに凡夫のちからにてみだすべきにあらず、また[[EXC:撥無|撥無]] | + | :いま報土得生の[[機]]にあたへまします仏智の一念は、すなはち'''仏因'''なり。かの仏因にひかれてうるところの[[定聚の位]]、[[滅度]]に至るといふは、すなはち'''仏果'''なり。この'''仏因仏果'''においては、[[他力]]より成ずれば、さらに凡夫のちからにてみだすべきにあらず、また[[EXC:撥無|撥無]]すべきにあらず。しかれば、なにによりてか「因果撥無の機あるべし」といふことをいはんや。もつともこの[[名言]]、他力の[[宗旨]]をもつぱらにせらるる[[当流]]にそむけり。かつてうかがひしらざるゆゑか。はやく停止すべし。([[改邪鈔#P--939|改邪鈔 P.939]]) |
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2019年11月14日 (木) 23:51時点における版
いんがはつむ
因果の道理を否定すること。(改邪鈔 P.937)
出典(教学伝道研究センター編『浄土真宗聖典(注釈版)第二版』本願寺出版社
『浄土真宗聖典(注釈版)七祖篇』本願寺出版社
区切り線以下の文章は各投稿者の意見であり本願寺派の見解ではありません。
『浄土真宗聖典(注釈版)七祖篇』本願寺出版社
区切り線以下の文章は各投稿者の意見であり本願寺派の見解ではありません。
『改邪鈔』17では、通仏教(聖道門)の因果相順の理(因果の道理)のみを信じて阿弥陀仏の本願力の仏因仏果[1]を受け容れられない者を批判していた。
- おほよそ他力の一門においては、釈尊一代の説教にいまだその例なき通途の性相[2]をはなれたる言語道断の不思議なりといふは、凡夫の報土に生るるといふをもつてなり。もし因果相順の理〔因果の道理〕にまかせば、釈迦・弥陀・諸仏の御ほねをりたる他力の別途むなしくなりぬべし。そのゆゑは、たすけましまさんとする十方衆生たる凡夫、因果相順の理〔因果の道理〕に封ぜられて、別願所成の報土に凡夫生るべからざるゆゑなり。
- いま報土得生の機にあたへまします仏智の一念は、すなはち仏因なり。かの仏因にひかれてうるところの定聚の位、滅度に至るといふは、すなはち仏果なり。この仏因仏果においては、他力より成ずれば、さらに凡夫のちからにてみだすべきにあらず、また撥無すべきにあらず。しかれば、なにによりてか「因果撥無の機あるべし」といふことをいはんや。もつともこの名言、他力の宗旨をもつぱらにせらるる当流にそむけり。かつてうかがひしらざるゆゑか。はやく停止すべし。(改邪鈔 P.939)
- →通途
- →別途
- 〔…〕内は林遊が付加した。
いわゆる通仏教 (聖道門) の因果相順の理〔因果の道理〕に呪縛されることは、浄土真宗の本願力に拠る救済論を理解していないことであった。「自業自得の因果論」と阿弥陀仏の「大悲の必然としての因果論」の違いは御開山の救済論の根幹にかかわることがらであった。