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「いはれ」の版間の差分

出典: 浄土真宗聖典『ウィキアーカイブ(WikiArc)』

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浄土真宗では、『教行証文類』信巻の、
 
浄土真宗では、『教行証文類』信巻の、
 
:しかるに『経』に「聞」といふは、衆生、'''[[仏願の生起本末]]'''を聞きて疑心あることなし、これを聞といふなり。「信心」といふは、すなはち本願力回向の信心なり。([[信巻末#no65|信巻 P.251]])
 
:しかるに『経』に「聞」といふは、衆生、'''[[仏願の生起本末]]'''を聞きて疑心あることなし、これを聞といふなり。「信心」といふは、すなはち本願力回向の信心なり。([[信巻末#no65|信巻 P.251]])
の文によって、聞くとは、仏の願い([[仏願の生起本末]])を聞いて疑う心の無いことを「聞」という。この疑い無き聞が信である([[聞即信]])から、本願のいわれを聞くことを特に重視する。「疑心あることなし」とは、私のはからいが、無いありさまをいい、信心を私の側にみないということである。これが「すなはち本願力回向の信心」であった。<br />
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の文によって、聞くとは、仏の願い([[仏願の生起本末]])を聞いて疑う心の無いことを「聞」という。この疑い無き聞が信である([[聞即信]])から、本願の'''いわれ'''を聞くことを特に重視する。「疑心あることなし」とは、私のはからいが、無いありさまをいい、信心を私の側にみないということである。これが「すなはち本願力回向の信心」であった。<br />
 
「生起」とは、阿弥陀仏があらゆる衆生をさとりの界(さかい)である浄土へ往生させようという本願(仏願)を起こされた根本の意図である。本末の「本」とは、阿弥陀仏が本願を成就された因本の修行の意である。「末」とは阿弥陀仏の本願と修行が既に成就して、私に届いて称えられ聞こえている〔なんまんだぶ〕が、さとりの浄土へ往く衆生済度のはたらきをしていることをいう(果末)。<br />
 
「生起」とは、阿弥陀仏があらゆる衆生をさとりの界(さかい)である浄土へ往生させようという本願(仏願)を起こされた根本の意図である。本末の「本」とは、阿弥陀仏が本願を成就された因本の修行の意である。「末」とは阿弥陀仏の本願と修行が既に成就して、私に届いて称えられ聞こえている〔なんまんだぶ〕が、さとりの浄土へ往く衆生済度のはたらきをしていることをいう(果末)。<br />
この「仏願の生起本末」を、本願のいわれといい、浄土真宗では、このいわれを聞くこと、つまり[[聴聞]]することを御恩報謝の行業として最重要視する。凡夫には、広大な仏陀のさとりの世界は眼で確認(眼見)することは出来ないが、耳で聞く([[聞見]])ことによって[[信知]]することができるのであった。
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この「仏願の生起本末」を、本願の'''いわれ'''といい、浄土真宗では、この'''いわれ'''を聞くこと、つまり[[聴聞]]することを御恩報謝の行業として最重要視する。凡夫には、広大な仏陀のさとりの世界は眼で確認(眼見)することは出来ないが、耳で聞く([[聞見]])ことによって[[信知]]することができるのであった。
  
 
蓮如上人は『御文章』で、理由、来歴の意でこの〔いはれ〕の語を多く使われた。<br />
 
蓮如上人は『御文章』で、理由、来歴の意でこの〔いはれ〕の語を多く使われた。<br />

2023年8月31日 (木) 11:57時点における版

 いはれ いわれ 謂れ

(由来として)いわれていること。物(モノ)と事(コト)の成り立っている筋道、由(よ)って来たるわけ、理由、来歴。なお一般には〔寺のいわれ〕などのように事物の由緒の意で使う場合もある。
浄土真宗では、『教行証文類』信巻の、

しかるに『経』に「聞」といふは、衆生、仏願の生起本末を聞きて疑心あることなし、これを聞といふなり。「信心」といふは、すなはち本願力回向の信心なり。(信巻 P.251)

の文によって、聞くとは、仏の願い(仏願の生起本末)を聞いて疑う心の無いことを「聞」という。この疑い無き聞が信である(聞即信)から、本願のいわれを聞くことを特に重視する。「疑心あることなし」とは、私のはからいが、無いありさまをいい、信心を私の側にみないということである。これが「すなはち本願力回向の信心」であった。
「生起」とは、阿弥陀仏があらゆる衆生をさとりの界(さかい)である浄土へ往生させようという本願(仏願)を起こされた根本の意図である。本末の「本」とは、阿弥陀仏が本願を成就された因本の修行の意である。「末」とは阿弥陀仏の本願と修行が既に成就して、私に届いて称えられ聞こえている〔なんまんだぶ〕が、さとりの浄土へ往く衆生済度のはたらきをしていることをいう(果末)。
この「仏願の生起本末」を、本願のいわれといい、浄土真宗では、このいわれを聞くこと、つまり聴聞することを御恩報謝の行業として最重要視する。凡夫には、広大な仏陀のさとりの世界は眼で確認(眼見)することは出来ないが、耳で聞く(聞見)ことによって信知することができるのであった。

蓮如上人は『御文章』で、理由、来歴の意でこの〔いはれ〕の語を多く使われた。
例:

ことにすぐれたるいはれあるがゆゑに(p.1098)
これ真実の往生極楽をとぐべきいはれなるがゆゑなり(p.1102)
このいはれをもつてよくよくこころうべし。(p.1122)
われらが往生すべき他力の信心のいはれをよくしらずは(p.1126)、等々。

なお、浄土真宗では、敬意の称としての、大(おお:御と表記)の意である接頭語の「お」をつけて、「お・いわれ」として使用することが多い。
例:本願のおいわれ。お御法(おみのり)。お聴聞。お名号、等々。[1]

仏願の生起本末
聴聞
聞即信

  1. この「お」と「御(ご)」の使い分けは、訓読みの和語なら「お」、音読みの漢語なら「ご」と発音するといわれる。しかし、お返事、お礼状、お食事などのように日常語になっている語では和語と同じように「お」を付ける。また美称化する場合にも「お」が使われる事が多い。ただ発音しやすいので、ご法義、ご本山なとどいう場合もある。