「難行道」の版間の差分
出典: 浄土真宗聖典『ウィキアーカイブ(WikiArc)』
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:「易行道」とは、いはく、ただ[[信仏の因縁]]をもつて浄土に生ぜんと願ずれば、仏願力に乗じて、すなはちかの清浄の土に往生を得、[[仏力住持して]]、すなはち大乗[[正定の聚]]に入る。正定はすなはちこれ阿毘跋致なり。たとへば水路に船に乗ずればすなはち楽しきがごとし。この『無量寿経優婆提舎』(浄土論)は、けだし[[上衍]]の極致、[[不退の風航]]なるものなり。([[浄土論註 (七祖)#no1|浄土論註P.47]])、([[行巻#P--155|行巻 P.155]]) | :「易行道」とは、いはく、ただ[[信仏の因縁]]をもつて浄土に生ぜんと願ずれば、仏願力に乗じて、すなはちかの清浄の土に往生を得、[[仏力住持して]]、すなはち大乗[[正定の聚]]に入る。正定はすなはちこれ阿毘跋致なり。たとへば水路に船に乗ずればすなはち楽しきがごとし。この『無量寿経優婆提舎』(浄土論)は、けだし[[上衍]]の極致、[[不退の風航]]なるものなり。([[浄土論註 (七祖)#no1|浄土論註P.47]])、([[行巻#P--155|行巻 P.155]]) | ||
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「[[乞眼の因縁]]」には、[[舎利弗]]はその前生において六十劫の間、菩薩行を修めたが、ある乞人から眼を乞われて、みずからの一眼をえぐり取り与えたところ、乞人がこれを地に捨てたので、世の人を導くことを断念し、大乗菩薩道から退転したという。 →[[トーク:乞眼の因縁]] | 「[[乞眼の因縁]]」には、[[舎利弗]]はその前生において六十劫の間、菩薩行を修めたが、ある乞人から眼を乞われて、みずからの一眼をえぐり取り与えたところ、乞人がこれを地に捨てたので、世の人を導くことを断念し、大乗菩薩道から退転したという。 →[[トーク:乞眼の因縁]] |
2024年10月10日 (木) 00:08時点における版
『十住毘婆沙論』の「易行品」の最初に、
至阿惟越致地者 行諸難行 久乃可得 或堕声聞辟支仏地 若爾者是大衰患
- 阿惟越致地に至るには、もろもろの難行を行じ、久しくしてすなはち得べし。 あるいは声聞・辟支仏地に堕す。もししからばこれ大衰患なり。(十住毘婆沙論 P.3)
とある。これを
そして、次下の偈に、
- もし声聞地、および辟支仏地に堕するは、
- これを菩薩の死と名づく。すなはち一切の利を失す。
- もし地獄に堕するも、かくのごとき畏れを生ぜず。
- もし二乗地に堕すれば、すなはち大怖畏となす。
- 地獄のなかに堕するも、仏に至ることを得。
- もし二乗地に堕すれば、畢竟じて仏道を遮す。(十住毘婆沙論 P.3)
と、二乗に堕したものは、決して二度と大乗に帰入しないので「菩薩の死」といふのであった。
このように、二乗地に堕する可能性をもった阿惟越致地の菩薩道は、まさしく難行道である。 →乞眼の因縁
そこで、二乗へ堕する可能性のない道であるとして信方便易行の易行道が説かれたのであろう。
曇鸞大師は、この易行道を、
と、阿弥陀仏の浄土教に、はじめて「易行道」を仏願力による「他力」という名目を導入されたのは曇鸞大師であった。
菩薩の修める「六波羅蜜」の最初は布施である。
「乞眼の因縁」には、舎利弗はその前生において六十劫の間、菩薩行を修めたが、ある乞人から眼を乞われて、みずからの一眼をえぐり取り与えたところ、乞人がこれを地に捨てたので、世の人を導くことを断念し、大乗菩薩道から退転したという。 →トーク:乞眼の因縁