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曇鸞

出典: 浄土真宗聖典『ウィキアーカイブ(WikiArc)』

曇鸞大師から転送)

どんらん(476-542)

 山西(さんせい)雁門(がんもん)の生れ。神鸞(じんらん)とも尊称された。 四論宗や『涅槃経(ねはんぎょう)』の仏性義(ぶっしょうぎ)に通じ、『大集経(だいじっきょう)』の註釈を志したが、健康を害して果さず、その後不老長生の法を求めて江南に道士陶弘景(とうこうけい)を訪ね、仙経を授かった。

帰途洛陽菩提流支(ぼだいるし)に会い、浄教を授けられ仙経を焼きすてて浄土教に帰したという。東魏の皇帝の尊崇をうけ、并州(へいしゅう)大巌寺(だいがんじ)に住し、後、石壁(せきへき)玄中寺(げんちゅうじ)に入った。その後、汾州(ふんしゅう)平遥(へいよう)山の寺に移り、ここで示寂した。天親菩薩の『浄土論』を註釈して『往生論註(おうじょうろんちゅう)』二巻(『浄土論註』(『論註』ともいう)を著し、五念門の実践を説き、浄土教の教学と実践を確立した。著書は他に『讃阿弥陀仏偈(さんあみだぶつげ)』一巻などがある。七高僧の第三祖。

出典(教学伝道研究センター編『浄土真宗聖典(注釈版)第二版』本願寺出版社
『浄土真宗聖典(注釈版)七祖篇』本願寺出版社

区切り線以下の文章は各投稿者の意見であり本願寺派の見解ではありません。

◆ 参照読み込み (transclusion) トーク:曇鸞

御開山は、曇鸞大師菩薩としてみようとされておられた。また曇鸞大師造の『讃阿弥陀仏偈』を経と見ようとされておられた。

『讃阿弥陀仏偈』の冒頭の、

南無阿弥陀仏 釈名無量寿 傍経奉讃亦曰安養
南無阿弥陀仏 釈して無量寿と名づく。経に傍(そ)へて讃めたてまつる。また安養ともいふ。(讃弥陀偈 P.161)

という文を、

南無阿弥陀仏 釈して『無量寿傍経』と名づく、讃めたてまつりてまた安養といふ。(浄土 P.556)

と『讃阿弥陀仏偈和讃』では「無量寿傍経」と読まれたのである。→釈して…安養といふ
また「正信念仏偈」では、

本師曇鸞梁天子 常向鸞処菩薩礼
本師曇鸞は、梁の天子、つねに鸞のところに向かひて菩薩と礼したてまつる。(行巻 P.205)

と、曇鸞大師を梁の天子をして菩薩とされておられたと『安楽集』の文を引いておられた。
御開山は『論註』の「本願力回向」の往相・還相(論註 P.107)という指示により、浄土教こそ「大乗のなかの至極なり」(消息P.737)であると領解されたのであった。それはまた、

二つに還相の回向といふは、すなはちこれ利他教化地の益なり。すなはちこれ必至補処の願(第二十二願)より出でたり。また一生補処の願と名づく。また還相回向の願と名づくべきなり。『註論』(論註)に顕れたり。ゆゑに願文を出さず。『論の註』を披くべし。(証巻 P.313)

や、

『『註論』にいはく、「〈荘厳清浄功徳成就とは、『偈』に、《観彼世界相勝過三界道》といへるがゆゑに〉(浄土論)と。これいかんが不思議なるや。凡夫人、煩悩成就せるありて、またかの浄土に生ずることを得るに、三界の繋業畢竟じて牽(ひ)かず。すなはちこれ煩悩を断ぜずして涅槃分を得。いづくんぞ思議すべきや」と。(真巻 P.357)

と、本来は釈である『浄土論註』を『註論』とされた意であった。それは論註の「覈求其本釈」によって、善導、法然両師が示された穢土と浄土という二元論の上に相対の上の絶対教判として「誓願一仏乗」の教義体系を確立されたからであった。それが本願を聞信すれば、あらゆる者が仏に成ることが出来るという、なんまんだぶのご法義であった。

なんまんだぶ なんまんだぶ なんまんだぶ

略論安楽浄土義 (道綽禅師は曇鸞大師の著とされている。)
WDM:どんらん
参照WEB版浄土宗大辞典の「曇鸞」の項目