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他力

出典: 浄土真宗聖典『ウィキアーカイブ(WikiArc)』

2013年10月13日 (日) 10:02時点における林遊 (トーク | 投稿記録)による版

親鸞聖人は『証巻』の末尾で次下のように「他利利他の深義」ということを仰るのだが一切の解説がない。

「宗師(曇鸞)は大悲往還の回向を顕示して、ねんごろに他利利他の深義を弘宣したまへり。仰いで奉持すべし、ことに頂戴すべしと。」(証巻 P.335)

この他利利他とは『浄土論註』の「覈求其本釈(かくぐごほんしゃく)」からの引文である。『浄土論』の利行満足章では、五念門の成就を、

また五種の門ありて漸次に五種の功徳を成就す、知るべし。(浄土論 P.41)

とし、漸次に五種の功徳を成就するとされている。しかし、『浄土論』の結論では、

菩薩はかくのごとく五門の行を修して自利利他す。速やか阿耨多羅三藐三菩提を成就することを得るゆゑなり。 (浄土論 P.42)

とあり、速やかに無上仏に成るのである(阿耨多羅三藐三菩提を成就)とされる。この〈漸次〉と〈速やか〉の違いを自利・利他という概念によって考察されたのが曇鸞大師の覈求其本釈であった。曇鸞大師ご自身が『浄土論註』の冒頭で、すでに釈尊が入滅されて仏がいない時代に仏果を得る困難を五つ挙げられ、

五にはただこれ自力にして他力の持つなし。
かくのごとき等の事、目に触るるにみなこれなり。たとへば陸路の歩行はすなはち苦しきがごとし。「易行道」とは、いはく、ただ信仏の因縁をもつて浄土に生ぜんと願ずれば、仏願力に乗じて、すなはちかの清浄の土に往生を得、仏力住持して、すなはち大乗正定の聚に入る。(論註 P.47)

と釈されたように、自力対他力(自利と利他)、難行道対易行道の対判によって、自力であるならば漸次であるが他力である仏願力(本願力)に乗ずれば速やかに仏果を得ることが出来ると、次下の覈求其本釈をあらわされたのであった。

「しかるに(まこと)に其の本を求むるに、阿弥陀如来を増上縁となす。他利と利他と、談ずるに左右あり。もし仏よりしていはば、よろしく利他といふべし。衆生よりしていはば、よろしく他利といふべし。いままさに仏力を談ぜんとす。このゆゑに「利他」をもつてこれをいふ。」(論註 P.155)

本来、他利と利他は同義語であって意味に違いはない筈なのだが、曇鸞大師は「談ずるに左右あり」と言われる。 この談ずるに左右ありの解釈に古来から和上方が苦労されてきたところで「他利と利他と、談ずるに左右あり」は一体なにを意味しているかの考察である。

これは親鸞聖人の「他力=利他力=本願力」という思想の根幹になるもので、古来から各種の説が論じられてきた。 今、ここでは梯實圓和上の論文から一部を抜粋してその意を窺ってみよう。

>>>引用開始

『親鸞聖入の他力観』(p17)梯實圓和上
私は、他利とは他なる仏に衆生が利益されることをいい、利他とは仏が他なる衆生を利益することをいうとする『論註翼解』の説を採用したいと思う。
従来同義語として用いられていた他利と利他とを「談ずるに左右あり」といわれたのは、仏力成就の五念という特別の義意を表すためであった。
それにしてもこのように左右を見ることができたのは、「利」を動詞と見て、それを中心に、「他利」は「他利自(他が自を利す)」の「自」という目的語を省略した語であり、「利他」は、「自利他(自が他を利す)」の主語の「自」を省略した語型と見られたからではなかろうか。
したがって他利は他者である阿弥陀仏が、衆生、すなわち私を利益するという状況を表現する言葉になる。この場合は救済される者を「自」すなわち「我」とし、救済する如来を「他」すなわち「汝」と見ていることになるから、「衆生よりしていはば宜しく他利といふべし」ということになる.
それにひきかえ利他は自者である如来が他なる衆生を救済するという状況を表現する言葉になる。
この場合は救済する者を「自」というから如来が「我」であり、救済される衆生は他者すなわち「汝」と見ての発言になる。
それが「仏よりしていはぱ宜しく利他といふべし」といわれた意味であろう。
仏の救済活動を仏の側、すなわち法の側から表すには「我よく汝を救う」と、仏を「我」として衆生を「汝」と呼ぶ表現である「利他」がふさわしいから、「いままさに仏力を談ぜんとす、このゆゑに利他をもつてこれをいふ」といわれたのである。
利他は法の側から仏力を談ずる言葉であるというのである。
後に親欝聖人が本願力回向を表すのに利他という表現を多く用いられたのはその故である。

>>>引用終わり

他利:他利(自) 「他が自を利す」 他である仏(他)が、自である我(自)を利益する。

他利 他利自 (他が自を利す) 無義為義

利他:(自)利他 「自が他を利す」 自である仏(自)が、他である我(他)を利益する。

利他 自 (自が他を利す)無作の義

つまり、如来の救済を衆生からいえば他(如来)が利すといい、仏からいえば他(衆生)を利すという。ここでは、いままさに仏の方から仏力を語る(今将談仏力)ので利他といわれたのである。これを他力というのである。

親鸞聖人は、利他深広の信楽、利他真実、利他の真心、利他回向の至心、利他真実の信心、利他真実の欲生心、利他の信海、利他円満の妙位、利他の一心などなど利他という言葉を使われているが、この利他とは、他者に功徳・利益を施して救済することをいい、阿弥陀仏の側からの救いの働きをいう。

これを親鸞聖人は、

他力といふは如来の本願力なり。(行巻「他力釈」P.190

と仰ったのであって、他が自を救済する意味で他力と仰ったのではない。

親鸞聖人は『愚禿鈔』の「二河譬」で如来の招喚を、

「また、西の岸の上に、人ありて喚ばうていはく、〈汝一心正念にして直ちに来れ、我能く護らん〉」(愚禿鈔 P.538)

と釈され、「汝」の言は行者なり、とし、「我」の言は、尽十方無礙光如来なり、不可思議光仏なり、と仰るのもこのような本願力による回向の世界をあらわしておられるのである。

他力という言葉が、他者依存のような意味で用いられているが、本来の他力という言葉の意味は、一方的に衆生を救済するという阿弥陀如来の利他力を仏の側から表現した言葉である。

さて、仏力を談ずである。

浄土真宗というご法義の枠内におりながら、信心を頂いたとか頂かないとか、助かったとか助からないとか、それは何時であるかなどと論じる輩がいる。 これを昔から越前では、乞食信心とか約生地獄とか言い、「他力の中の自力とは、いつも御恩が喜べてびくとも動かぬ信心が、私の腹にあるという、凡夫の力みを申すなり」と揶揄してきた。

他力といふは如来の本願力であり、全く如来のひとりばたらきを他力というのであって、凡夫の側の造作が入るならそれは真実ではない。

『浄土論註』の真実功徳相釈に、

「真実功徳相」とは、二種の功徳あり。一には有漏の心より生じて法性に順ぜず。いはゆる凡夫人天の諸善、人天の果報、もしは因もしは果、みなこれ顛倒、みなこれ虚偽なり。このゆゑに不実の功徳と名づく。二には菩薩の智慧清浄の業より起りて仏事を荘厳す。法性によりて清浄の相に入る。この法顛倒せず、虚偽ならず。名づけて真実功徳となす。いかんが顛倒せざる。法性によりて二諦に順ずるがゆゑなり。いかんが虚偽ならざる。衆生を摂して畢竟浄に入らしむるがゆゑなり。(論註 P.57)

凡夫人天のなす諸善は全て顛倒であり虚偽で不実であり、菩薩(法蔵菩薩)の智慧清浄の業より起こされたものこそが真実であるといわれている。四十八願によって建立された清浄願心の荘厳は、阿弥陀如来の因浄なるがゆゑに果浄なる浄土だからである。

それでは一切の手がかりが無いではないかと言われるであろうが、私を中心とした世界観で物を分別している限り、微塵劫を超過すれども判らないであろう。 何故か、浄土真宗は、私が助かる事を聞くのではなく、私が助けられる法を聞く本願力回向のご法義であるからである。 これが「仏願の生起本末を聞く」という事である。

私はいま、如来の救済の真っ只中におりながら、私の救済を求め、ありもしない信心を追い求める事を疑心というのである。

「しかるに『経』(大経・下)に「聞」といふは、衆生、仏願の生起本末を聞きて疑心あることなし、これを聞といふなり。」(信巻 P.251)

聞くとは、如来の本願を疑いなく聞いている状態を「聞く」という。疑いながら聞いているのではない、疑いなく計らいなく聞いている状態を「聞く」というのである。ここは信によって聞の意味を解釈しているのである。私のために起こして下さった本願が私に向かって「必ず助けるぞ」と呼びかけていて下さる、それを聞いていることが信心であるというのである。
疑心あることなし、とは無い状態を言うのであって、私に信心という物柄が有るのではない。「信心」といふは、すなはち本願力回向の信心なり、であるからである。 私が助かるか助からないかは如来が心配して下さる事であって、私が心配することではないのである。私が助けられる法を聞く事が、まさに仏力を談ずることである。

月影のいたらぬ里はなけれども、蓋ある水に影はやどさじ

という法然聖人の本歌取りの歌があるが、私が、という想いの蓋を取り除けば、こうこうと御信心の月は照って下さるのである。