一念多念
出典: 浄土真宗聖典『ウィキアーカイブ(WikiArc)』
いちねん-たねん
一念義と多念義のこと。一念義とは、浄土往生は信心ひとつで
これに対して多念義とは、浄土往生は一生涯数多くの念仏を称え、臨終
『浄土真宗聖典(注釈版)七祖篇』本願寺出版社
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- 一念多念
一念義と多念義のこと。またこれらをめぐる教学論争を一念多念の諍論などという。
一念義は浄土往生は信心ひとつで決定する、または一声の称名で決定するとし、その後の称名を軽視する。
多念義は、一生涯、数多くの念仏を称え、臨終来迎をまって浄土往生が決定すると主張する。一念義と多念義の論争は、法然の存命中からみられ、その示寂後も続いた。法然の門下である隆寛は『一念多念分別事』を著して、一念や多念に偏執してはならないと諭した。親鸞の門下にもこの論争が生じており、親鸞は、隆寛の『一念多念分別事』を注釈した『一念多念文意』を著し、また『御消息』第41通(消息 P.804)などで、一念多念の争いが誤りであることを示している。(浄土真宗辞典)
法然聖人は、御開山が記述された『西方指南抄』で、称名の一多について、
- 信おば一念に生るととり、行おば一形をはげむべし。 (西方指南抄/下本p.216)
と、信の一念と行の多念の念仏の相続について語られておられた。
御開山は『一念多念文意』で、一念に関する要文を十三文引証し多念に関する要文を八文引証され、その結論として、
- これにて一念多念のあらそひあるまじきことは、おしはからせたまふべし。浄土真宗のならひには、念仏往生と申すなり、まつたく一念往生・多念往生と申すことなし、これにてしらせたまふべし。 (一多 P.694)
と、一念や多念に固執するのではなく念仏往生であるとされておられた。
源信僧都の師である慈慧大師良源などは、第十八願の十念の語に着目し、『極楽浄土九品往生義』で第十八願を「聞名信樂十念定生願」とされていた。この十念という数に固執することを、第十八願の乃至十念は数に固執するのではない「念仏往生の願」とされたのが法然聖人であった。御開山が「信巻」で、第十八願の信心を釈し、
- この心すなはちこれ念仏往生の願(第十八願)より出でたり。この大願を選択本願と名づく、また本願三心の願と名づく、また至心信楽の願と名づく、また往相信心の願と名づくべきなり。
と、念仏往生の願とされた所以である。