ほうぞうぼさつ
法蔵比丘
法蔵は梵語ダルマーカラ(dharmākara)の漢訳。曇摩迦・曇摩迦留と音写し、法処、作法とも漢訳する。阿弥陀仏の因位の名、すなわち阿弥陀仏が世自在王仏のもとで本願をたてられた時の名。→補註16。(大経 P.28, 観経 P.99,持名鈔 P.1001,真要鈔 P.969,御文章 P.1179)
出典(教学伝道研究センター編『浄土真宗聖典(注釈版)第二版』本願寺出版社
『浄土真宗聖典(注釈版)七祖篇』本願寺出版社
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インクルード 補註16
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16 菩薩
菩薩とは、梵語ボーディサットヴァ(bodhi-sattva)を音写した語で、菩提薩埵ともいい、漢訳して覚有情・道衆生・道心衆生などともいう。さとりを求めて修行するもの、すなわち求道者の意味である。
最初期は成仏する以前の修行時代の釈尊を指す言葉であった(釈迦菩薩)。その意味では「さとりに定まった有情」を指すのが元の語義であった。それが大乗仏教になると、意味が拡大されて、出家・在家、男女を問わず、仏陀のさとりを求めて修行するものをすべて菩薩と呼ぶようになったのである(凡夫の菩薩)。
また、弥勒・普賢・文殊・観音などのもう一つの菩薩があって、これらの菩薩は、現にましまして衆生を教化しつつある菩薩(大菩薩)である。大乗仏教の菩薩はすべて願と行とを具えているといわれる。
その願は、それぞれの菩薩によって異なる。それを象徴的に示したのが、普賢の行、観音の慈悲、文殊の智慧などである。しかしすべての菩薩に通じるものは、自らさとりを完成する(自利)と同時に生きとし生けるものを救う(利他)という目標を持って、深い慈悲に根ざしているということである。
このような願と行とを具する菩薩の典型的なものは、『大経』に説かれる法蔵菩薩である。『大経』には、過去無数劫(無限の過去)に一人の国王があり、出家して法蔵と名のり、世自在王仏の弟子となり、諸仏の国土を見て五劫の間思惟し、一切衆生を平等に救おうとして四十八願をおこし、兆載永劫(無限の時間)の修行を経て阿弥陀仏となられたと説かれてある。因位の法蔵菩薩が願と行に報われて阿弥陀仏となられたのであり、このような仏陀を報身仏と呼ぶ。
そのことから菩薩は、後には総合的に成仏道を歩む修行者という向上的な意味とともに、すでに仏となったものが、衆生救済のために菩薩のすがたをとるという向下的な意味をあわせもつようになった。いわゆる菩薩道とはこのような意味を含むものである。
阿弥陀仏の因位である法蔵菩薩についても、その発願・修行の結果阿弥陀仏となったと説かれているが、久遠実成の阿弥陀仏(無限の過去より、すでに仏であったところの阿弥陀仏、『浄土和讃』・『口伝鈔』に出る)が、衆生救済のために菩薩の発願・修行のすがたを示されたのであるという見方もある。
出典(教学伝道研究センター編『浄土真宗聖典(注釈版)第二版』本願寺出版社
『浄土真宗聖典(注釈版)七祖篇』本願寺出版社
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