『観経』の三心をえてのちに、『大経』の三信心をうるを一心をうるとは申すなり
出典: 浄土真宗聖典『ウィキアーカイブ(WikiArc)』
『観経』に説かれている三心の、至誠心・深心・回向発願心を
と、〔それを翻して〕の文を略して云われたのであろう。
善導大師の当面では「もし一心かけぬれば」の「一心」は『観経』の至上心・深心・回向発願心のうちの一心がかけることであるが、御開山は『大経』の三心即一の信楽(信心)である一心がかけることであるとされた。
法然聖人は、ご自身の回心の体験(*) から偏依善導といわれ、主として『観経疏』の説に拠られ浄土教を開顕された。それに対して、御開山は『大経』と法然聖人が所依の論として挙げられた『浄土論』、その注釈書である『論註』によって法然聖人の真意を洞察されたのであった。そして阿弥陀仏の本願を説く『大経』を真実の経とし、第十八願の、至心・信楽・欲生の三信(三心)を根拠とし詳細に展開されたのである。『観経』の三心から『大経』の三心への指示が「『観経』の三心をえてのちに、『大経』の三信心をうるを一心をうるとは申すなり」の釈であろう。それが三心結釈として、
と、疑蓋無雑の『浄土論』の「世尊我一心」の一心であった。
- 広く三経の光沢を蒙りて、ことに一心の華文を開く。しばらく疑問を至してつひに明証を出す。(信巻 P.209)
とある本願力回向の華のような一心であったのである。