御開山の仏身観は『論註』の法性・方便の二種法身として阿弥陀仏を領解されておられた。法性法身とは、さとりそのものである法性真如を本身とする仏身のことで、それはあらゆる限定や時間を超えた人間の認識を超えたものであった。それを『一念多念証文』で、
- この一如宝海よりかたちをあらはして、法蔵菩薩となのりたまひて、無碍のちかひをおこしたまふをたねとして、阿弥陀仏となりたまふがゆゑに、報身如来と申すなり。これを尽十方無碍光仏となづけたてまつれるなり。この如来を南無不可思議光仏とも申すなり。
- この如来を方便法身とは申すなり。方便と申すは、かたちをあらはし、御なをしめして、衆生にしらしめたまふを申すなり。すなはち阿弥陀仏なり。(一多 P.690)
と、一如宝海(一如法性)より「かたちをあらはし、御なをしめして、衆生にしらしめたまふ」のが阿弥陀仏だとされておられる。
「浄土和讃」で、
- 弥陀成仏のこのかたは
- いまに十劫とときたれど
- 塵点久遠劫よりも
- ひさしき仏とみえたまふ (浄土 P.556)
とされ『諸経讃』にも、
- 久遠実成阿弥陀仏
- 五濁の凡愚をあはれみて
- 釈迦牟尼仏としめしてぞ
- 迦耶城には応現する (浄土 P.572)
と、「
久遠実成」の阿弥陀如来を、かって学んだ天台法華の
塵点久遠劫という『法華経』の語を用いて「如来常住 悉有仏性」という無始無終の大乗仏教の理を示しておられる。
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