聴聞
出典: 浄土真宗聖典『ウィキアーカイブ(WikiArc)』
ちょう-もん
仏法をきくこと。 【左訓】「ゆるされてきく、信じてきく」(行巻 P.145、化巻 P.401,一代記 P.1237, P.1270)
『浄土真宗聖典(注釈版)七祖篇』本願寺出版社
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- 聴聞(ちょう-もん)
聴も聞も、言語、声、音などを「きく」という意。 →聴 →聞
『教行証文類』では、魏訳の『無量寿経』の「往覲偈」に相当する『平等覚経』の文を引文しておられる。御開山は、この『平等覚経』の
- 宿世時見仏者 楽聴聞世尊教
- 宿世のとき仏を見たてまつれるもの、楽んで世尊の教を聴聞せん。
の聴聞の漢字の左訓に「ユルサレテキク シンシテキク」とされておられる。『平等覚経』の当面では、同じ「きく」という意味の聴と聞を合わせて、偈文としての字数を揃えるために「聴聞」と熟語にしたのであろう。ただ御開山は、この漢字はこういう意味なのですよ、この字にはこのような意味もあるのですよ、と読む者に教えるために個々の漢字の意味を和語であらわす左訓をされることが多い。
聴(聽)という漢字には、「ききいれる(聴許)」という意から「ゆるす」という意味もあるので「ゆるされてきく」と左訓されたのであろう。日本語は同音異義語が多いので、漢字に還元しなければ本来の語の正確な意味がわからない場合が多い。例すれば、和語の「はかる」には、画、図、揆、議、計、権、測、忖、度、謀、料、量、称などの漢字がある。和語では同じ「はかる」と読む漢字なのだが、例えば体積をはかる量(はか)ると、深さや軽重を測(はか)るとは意味が異なるのであった。ちなみに御開山は「称=秤は俗字」(行巻 P.156)とは、天秤ばかりにかければ、かけられたものがかけられたままに如実に相応するという意で、称名という〔なんまんだぶ〕の「称」を領解しておられた。これは和語で表現された以下の『一念多念証文』での「称」の解釈からわかる。(如実修行相応)
- 「称」は御なをとなふるとなり、また称ははかりといふこころなり、はかりといふはもののほどを定むることなり。名号を称すること、十声・一声きくひと、疑ふこころ一念もなければ、実報土へ生ると申すこころなり。(一多 P.694)
ともあれ、和語では同じ「きく」を意味する聴と聞なのだが、角川の『新字源』(昭和44年19版)の同訓異義には、
- 聴 聴こうとして聴く、よく聴く。
- 聞 耳にはいる。聞える。
とあり、聴とは能動をあらわし聞とは受動をあらわす意であろう。聞は聞こえると送り仮名ができるが、聴の字は聴こえると送り仮名ができないとされる。 なお、御開山も依用された最古の部首別漢字字典である『説文解字』には
- 往曰聽。來曰聞。[1]
- 往くを 聴といい、来るを 聞という。
とあり、聴とは聴きに出かけて聴く能動であり、聞とは知らされたことが来て心に中(あた)る受動をいうのであろう。これを『説文解字』では四書の一である『大学』の例文を引き、「大学曰。心不在焉。聴而不聞(『大学』にいわく、心ここにあらざれば、聴けども聞こえず)」とする。
要するに「聴」という聴き方は単に言葉の辞書的意味を聴くだけであり、「聞」とは、その聞こえたことによって心に全く新しい領域が開け発(おこ)ることを「聞」というのであろう。聞いたままが、如実に心に印現することを聞というのであった。
浄土真宗では、古来から「聞」という語を重視する。これは御開山が本願成就文の、
- 諸有衆生 聞其名号 信心歓喜 乃至一念 至心廻向 願生彼国 即得往生住不退転。
- あらゆる衆生、その名号を聞きて、信心歓喜せんこと、乃至一念せん。至心に回向したまへり。かの国に生ぜんと願ずれば、すなはち往生を得、不退転に住せん。 :あらゆる衆生、その名号を聞きて、信心歓喜せんこと、乃至一念せん。至心に回向したまへり。
の「その名号を聞きて」の「聞」を、
- しかるに『経』に「聞」といふは、衆生、仏願の生起本末を聞きて疑心あることなし、これを聞といふなり。「信心」といふは、すなはち本願力回向の信心なり。
と釈されて、御開山は、疑心あることなき「聞」を、本願力回向の信心とされたからであった。聞によって信をあらわしておられるのである。 これが、聞こえたままがすなわち信心であるという浄土真宗特有の「聞即信」という言葉であった。