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大綱

出典: 浄土真宗聖典『ウィキアーカイブ(WikiArc)』

2018年8月8日 (水) 03:36時点における林遊 (トーク | 投稿記録)による版

たい-こう

 基本的な事柄、大づかみにとらえた内容。大要。大本(おおもと)、あらましの意。
大は、おおもととか基本とか広いという意で、綱はつな(ロープ)のことであり物事の細部を縛ってまとめているという意味である。〔浄土真宗の大綱〕、〔本願の大綱〕などと使う。
浄土真宗は、本願力回向の宗義であるから、同じ言葉を使っても、通仏教(聖道門仏教)や世間の論理と、その依って立つ論理構造が全く違う。

法然聖人は『醍醐本法然上人伝記』に、後に天台座主になった顕真に、生死を解脱すべき道を問われて、

答う。成仏、難しといえども往生は得易きなり。
道綽・善導の意に依らば、仏の願力の仰せを強縁となす、ゆえに凡夫浄土に生まると云々。(『醍醐本法然上人伝記』五 大原問答について)

とされ、この土でさとりを開く「此土入聖」の法門と、浄土に往生して証を得る「彼土得証」の法門の綱格の違いについて述べられている。 法然聖人は、この意を、

聖道門の修行は、智慧をきわめて生死をはなれ、浄土門の修行は、愚痴にかへりて極楽にむまる。(『西方指南抄』下本「浄土宗大意」p.219)

と、示されたと、御開山は晩年に著された『西方指南抄』に記しておられる。
そして、法然聖人からお聞きしたご法義の究極は、

「親鸞におきては、ただ念仏して弥陀にたすけられまゐらすべしと、よきひと(法然)の仰せをかぶりて信ずるほかに別の子細なきなり。(歎異抄 P.832)

という、ただ、なんまんだぶを称えて浄土に往生するという「念仏往生の願」を受容された御開山は、法然聖人の指示として『選択本願念仏集』の標宗の文を引文しておられる、その大綱を、

『選択本願念仏集』[源空集]にいはく、

「南無阿弥陀仏[往生の業は念仏を本とす]」と。

またいはく「それすみやかに生死を離れんと欲はば、二種の勝法のなかに、しばらく聖道門をきて、選んで浄土門に入れ。浄土門に入らんと欲はば、正・雑二行のなかに、しばらくもろもろの雑行をちて、選んで正行に帰すべし。正行を修せんと欲はば、正・助二業のなかに、なほ助業をらにして、選んで正定をもつぱらにすべし。正定の業とはすなはちこれ仏の名を称するなり。称名はかならず生ずることを得。仏の本願によるがゆゑに」と。(行巻 P.185)

と『教行証文類』に引文されている。通仏教に対して、「閣」「抛」「傍」の三を主張するので「三選の文」として有名なのだが、これが浄土真宗の「大綱」である。「南無阿弥陀仏 往生之業念仏為本(なんまんだぶ、往生の業には、念仏を本となす)」の「称名必得生 依仏本願故」である。
この本願の大綱を知らずに、自覚としての信心を標榜し「名体不二」のなんまんだぶを称えることを知らない、浄土真宗の布教使という名の存在は可哀想である。
「浄土真宗の大綱」の大綱とは、仏教のパラダイム転換を要求する言葉なのだが、選択という「廃立」を知らない者には意味不明の消息であった。他力の「他」とはわたしなのであった。

なんまんだぶ なんまんだぶ なんまんだぶ

他力