全分他力
出典: 浄土真宗聖典『ウィキアーカイブ(WikiArc)』
ぜんぶん-たりき
自力と他力があいまって救済が成立するといふ半自力・半他力論に対する語。
『法然教学の研究』(梯實圓著) の「証空の全分他力説」には、
と、「衆生の方よりは何一つも用意すべき事なく、全分に仏の方より」とある。これを「全分他力」といふ。浄土真宗でも本願力回向の全分利他力を示す意で「全分他力」の語を使用する。
これに対し鎮西浄土宗では、聖道門は「自力は強く他力は弱し(自強・他弱)」とし、浄土門は「他力は強く自力は弱き(他強・自弱)」とし、自力と他力が
以下は、自力強・他力弱(聖道門)、他力強・自力弱(浄土門)を主張する鎮西派の派祖良忠上人の『選択伝弘決疑鈔』から引用。
- 選択伝弘決疑鈔 良忠
自力他力者、自三學力名爲自力、佛本願力名爲他力也。
- 自力他力とは、自の三学力(戒定慧の三学)を名けて自力となす、仏の本願力を名けて他力となすなり。
問 聖道修行亦請佛加、淨土欣求行自三業、而偏名意如何。
答 聖道行人先行三學、爲成此行而請加力、故屬自力。
- 答う、聖道の行人は先づ三学を行ず、此の行を成ぜんが為に而(しか)も加力を請う、故に自力に属す。
淨土行人先信佛力、爲順佛願而行念佛故屬他力也。
- 浄土の行人は先ず仏力を信じ、仏願に順ぜんが為に而も念仏を行ず、故に他力に属するなり。
自強他弱、他強自弱思之可知、水陸二道譬意自―顯也。
- 自は強く他は弱しと、他は強く自は弱きとこれを思てしるべし、水陸二道譬[2]の意おのずか顕わるなり。
乘佛願力者 即指第十八念佛往生願。
- 乗仏願力とは即ち第十八念仏往生の願を指す。
たとえば、聖道門は自力が90%で他力が10%であり、浄土門は他力が90%で自力が10%であるというのであるから、御開山の示された100%の本願力回向の法義と異なる。
次下では、
- 浄土宗名目問答 弁長
問 有人云。數遍是自力也 自力難行道 難行道陸路步行 雖苦其身 於往生者 全以不可遂也。
- 問ふ。有る人の云く。数遍はこれ自力なり、自力は難行道なり。難行道は陸路の步行なり。その身を苦しむといえども、往生においては全く以て遂ぐべからざるなり。
一念是他力也 他力是易行道也。易行道乘船水路 安樂其身 於往生速得之此義如何。
- 一念はこれ他力なり、他力はこれ易行道なり。易行道は乘船水路なり。その身を安樂にして往生において速にこれを得と、この義いかん。
答。此事極僻也。其故 云他力者 全馮他力 一分無自力事 道理不可然。
- 答ふ。この事、極たる僻(ひが)ごとなり。その故は、他力とは全く他力を馮み、一分も自力無しと云ふ事、道理しからず。
云雖無自力善根 依他力得往生者 一切凡夫之輩 于今不可留穢土 皆悉可往生淨土。又一念他力數遍自力者 何人師釋耶。
- 自力の善根無しといえども 他力に依て往生を得ると云はば、一切の凡夫の輩、今に穢土に留まらず、みな悉く淨土に往生すべし。 また一念の他力、數遍の自力とは何なる人師の釋なるや。
善導釋中 有自力他力義 無自力他力釋。一念他力數遍自力釋難得意。
- 善導の釈の中に自力の他力の義あれども、自力他力の釈無し[3]。一念は他力数編は自力の釈こころ得がたし。
又善導釋中 云以水陸譬難易二道 其釋未見。
- また善導の釈の中に、水陸のたとえをもって難易二道と云えること、その釈いまだ見えず。
但曇鸞導綽二師 以水陸譬難易二道。
- ただ曇鸞・道綽の二師、水陸をもって難易二道にたとふ。
又雖作自力他力釋 其又以一念 爲易行道 以數遍爲難行道 釋全所不作也。
- また自力他力の釈をなすといえども、それまた一念をもって易行道となし、数偏をもって難行道となすという釈まったく作(な)さざりしなり。
と述べて、
- 自力の善根無しといえども 他力に依て往生を得ると云はば、一切の凡夫の輩、今に穢土に留まらず、みな悉く淨土に往生すべし。
と阿弥陀仏の救済が全分他力だといふならば、一切の凡夫はすでに往生してしまっているのではないか?と論難されていた。これに対抗されたのが覚如上人の「宿善論」であり「信心正因論」であった。→宿善