二種深信
出典: 浄土真宗聖典『ウィキアーカイブ(WikiArc)』
にしゅ-じんしん
二種深信とは、善導大師の主著である『観無量寿経』の注釈書『観経疏』に説かれている『観経』の至誠心・深心・回向発願心の三心中の深心釈、
- 深心といふはすなはちこれ深く信ずる心なり。 また二種あり。
- 一には決定して深く、自身は現にこれ罪悪生死の凡夫、曠劫よりこのかたつねに没しつねに流転して、出離の縁あることなしと信ず。
- 二には決定して深く、かの阿弥陀仏の、四十八願は衆生を摂受したまふこと、疑なく慮りなくかの願力に乗じてさだめて往生を得と信ず。(散善義 P.457)
によって、二種深信と謂われる語である。ここに一にはとあるのは、自身には迷いの生死を出る手掛かりがまったくないということを深信するので「機の深信」という。二には、このような無有出離の者を済度するために阿弥陀仏は本願を建立された仏願の生起本末によって済度されることを深信することを「法の深信」いう。
『往生礼讃』では、
と、真実の信心とは、この機と法の二種を信知することであるとされている。この衆生(機)のさとりへの手がかりが全くない本来の相(すがた)を信知することを「信機」といい、その、曠劫より常没常流転してきた機を見そなわして済度する阿弥陀仏の済度のはたらきを信知することを「信法」という。このことは自らの力でのさとりの不可能であることを信知し、阿弥陀仏の本願のすくいに乗託することであるから「捨自帰他」という。浄土真宗では、この二種の深信は本願力廻向による他力信心の相を示し、二種一具の関係にあって別々のものではなく、一つの信心の両面をあらわすものだとする。越前の古参の門徒は、これを井戸のつるべに譬えて「上がるつるべは落ちるつるべ、落ちるつるべは上がるつるべ」などと言っていたものである。
信心を強調する浄土真宗では、ともすれば機の深信は自己の心の内面を凝視した上での情念としての罪悪感と混同し、そこから様々な異解が生まれてきた歴史がある。罪悪感に拘泥することは、不可称不可説不可思議の阿弥陀如来の本願力の済度のはたらきを、自己の思惟のレベルに貶めるいとなみでもあるのだが、現代においても罪の深きことを知れと、自らの自覚という意味で、法を語る大谷派の坊さんに多いので困ったものである。──大谷派の近代教学の自覚主義とキリスト教の影響を受けた原罪との混同から派生する異端である。本願寺派の社会学から派生した現代教学の一端もその轍をふむものであろう。──
なお、御開山には、七深信(愚禿下 P.521)という語はあるが、二種深信という言葉は無い。法然聖人の『選択本願念仏集』には、
- 次に「深心」とは、いはく深信の心なり。まさに知るべし、生死の家には疑をもつて所止となし、涅槃の城には信をもつて能入となす。ゆゑにいま二種の信心を建立して、九品の往生を決定するものなり。(選択集 P.1248)
と、二種の信心という語はある。法然聖人は『往生大要抄』で、この二種を釈して
- まことに此弥陀の本願に、十声・一声にいたるまで往生すといふ事は、おぼろげの人にてはあらじ。妄念をもおこさず、つみをもつくらぬ人の、甚深のさとりをおこし、強盛の心をもちて申したる念仏にてぞあるらん。われらごときのえせものどもの、一念・十声にてはよもあらじとこそおぼえんもにくからぬ事也。
- これは善導和尚は、未来の衆生のこのうたがひをおこさん事をかへりみて、この二種の信心をあげて、われらがごとき煩悩をも断ぜす、罪悪をもつくれる凡夫なりとも、ふかく弥陀の本願を信じて念仏すれば、十声・一声にいたるまで决定して往生するむねをば釈し給へる也。
- かくだに釈し給はざらましかば、われらが往生は不定にぞおぼえまし。
と、甚深のさとりをおこした勝れた人のみが称える念仏の法門であると誤解するおそれがあるゆえ、善導和尚は機の深心を釈されたとされていた。御開山の「誓願一仏乗」(行巻 P.195)の釈の意や「四不十四非」(信巻 P.245)の釈から窺えば、御開山は忠実に法然聖人を享けておられるのであった。なお、浄土真宗において、二種深信という用語の初出は、存覚上人の『六要鈔』であろう。
ともあれ、二種深信とは『観無量寿経』の、
- もし衆生ありてかの国に生ぜんと願ずるものは、三種の心を発して即便往生す。なんらをか三つとする。一つには至誠心、二つには深心、三つには回向発願心なり。(観経 P.108)
の、深心を機と法に開いた善導大師の釈から謂われ、浄土真宗に於ける信の特長を表現する語とされている。