名体不二
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みょうたいふに
阿弥陀仏の
名号には仏徳のすべてが摂在しているから、名号と仏体とは一体不二であること。(安心決定 P.1386)
『浄土真宗聖典(注釈版)七祖篇』本願寺出版社
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- 名体不二
「名」とは南無阿弥陀仏の名号。「体」とは阿弥陀仏という仏体のことで、両者は一つであって異なるものではないということ。南無阿弥陀仏の名号が阿弥陀仏という正覚の全体であり、名号を離れて阿弥陀仏の正覚がないということを示した語。(浄土真宗辞典) →安心論題/所帰人法
- 名体不二
真宗および浄土宗西山派で、南無阿弥陀仏という名号と阿弥陀仏の正覚の本質(体)とが相即不二であることをいう。名体相即とも名体不離ともいう。(仏教学辞典)
『論註』では『智度論』の指月の譬(*) を引いて、名と体は異なるのではないか、と問答を設け、名即法と名異法を論じていた。
- 問ひていはく、名をば法の指となす。指をもつて月を指すがごとし。もし仏の名号を称するにすなはち願を満つることを得といはば、月を指す指、よく闇を破すべし。もし月を指す指、闇を破することあたはずは、仏の名号を称すとも、またなんぞよく願を満てんや。
- 答へていはく、諸法万差なり。一概すべからず。名の法に即するあり。名の法に異するあり。名の法に即するとは、諸仏・菩薩の名号、般若波羅蜜、および陀羅尼の章句、禁呪の音辞等これなり。 (論註 P.104)
とされ、譬えは一概(一般的に理解)するのではないとされた。月を指し示す指によって、我々は月を認識できる。その意味で月(法)と法を指す指(名号)とは即応しており、一体的に理解すべきものであるとされた。仏の
御開山は元照の『弥陀経義』を引いて、
- 「いはんやわが弥陀は名をもつて物を接したまふ。ここをもつて、耳に聞き口に誦するに、無辺の聖徳、識心に攬入す。永く仏種となりて頓に億劫の重罪を除き、無上菩提を獲証す。まことに知んぬ、少善根にあらず、これ多功徳なり」と。(行巻 P.180)
とされ、阿弥陀仏は名号(なんまんだぶ)によって物(衆生)を摂取するのであるとされた。これを名体不二とも
なお『論註』と同じように、月と指が相即する不一不異(非同復非異)なることを禅宗の良寛禅師は「月の詩」として詠っていた。禅門的には「月もなく、また指もなし」という表現であるが、浄土門では月あるが故に指あるであった。大愚と号した良寛禅師はただ子供たちと毬つきをしていただけではなく、一隻眼(ものの本質を見抜く智慧の眼)を具していたのであろう。愚禿とか大愚とかを名乗る人は、ある意味では恐ろしい人であった。なんまんだぶ なんまんだぶ
- 因指見其月
- 指に因って その月を見
- 因月弁其指
- 月に因って その指を弁ず。
- 此月与此指
- この月とこの指と
- 非同復非異
- 同じに非ず また 異なるに非ず。
- 将欲誘初機
- まさに初機を誘(いざな)わんと欲して
- 仮説箇譬子
- 仮に箇の譬子(ひし)を説く。
- 如実識得了
- 如実に識得しおわれば
- 無月復無指
- 月もなく また 指もなし。
「意訳」 指で月を示すとも月で指を知るとも考えられる。 この場合、月と指は同じものではないが、さりとて ちがったものでもない。 この比喩は初学者を導くため、仮に説かれるのだが、その道理がそのままわかれば、月もなく指もなく、本来無差別なることを会得するだろう。『良寛詩集』東郷豊治編著より
この「名体不二」の阿弥陀如来の衆生済度の意を浄土真宗の門徒は、
- われ、名号となりて衆生に至り、衆生かえらずんば、われもまた還らじ
と、味わっていたものであった。 本願寺の大谷光瑞門主の言葉とされる「我、名号となりて衆生に到り衆生とともに浄土へ往生せん、若し衆生生まれずば 我も帰らじ」という句の味わいであろう。