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6 正定聚
正定聚とは、正しく仏になることに決定しているなかまという意味である。かならず仏になるということは、言葉をかえれば決して退転しないということであるので、不退転ともいう。親鸞聖人はこのような正定聚は平生の信の一念に与えられる利益であるので、これを現生正定聚といわれた。このようにかならず往生し成仏することに決定するのは、臨終のときではなく平生(ふだん)であるので、これをまた平生業成ともいう。
衆生が阿弥陀仏によって救済され、現生において与えられる利益について親鸞聖人は、『文類聚鈔』に、「また現生無量の徳を獲」(486) と示され、「信巻(末 251) には具体的に、「現生に十種の益を獲」といい現生十益が示されているが、これらはいずれも正定聚に入るという利益におさまるものである。
本願を信じ念仏するものは阿弥陀仏の本願に随順し、釈尊の教説に随順し、諸仏の教意に随順するものであるから、真の仏弟子といわれ、また分陀利華(白蓮華)に喩えてほめたたえられている。また金剛の信心をいただいた信心の行者は、次生において必ず仏になることに決定しているという意味で、一生補処の菩薩と同じ位にある。
すなわち現に兜率天にあって、次生にこの娑婆に出現して仏となるといわれる弥勒菩薩と同じ等覚の位であるというので、「便同」(すなはち弥勒に同じ)、「次如」(次いで弥勒のごとし)といわれる。
等覚は平等正覚の意味として仏の地位をあらわす場合もあるが、ここでは「等しい」を「ほとんど同じ」という意味にとり、仏のさとりである正覚とほとんど同じ徳をもつ菩薩の最高位をあらわして等覚というのである。阿弥陀仏の救済をうけた人々を「如来とひとし」という場合の「ひとし」というのもこの意味で、念仏者の絶対の尊厳性を示された言葉である。なお、これについては親鸞聖人の『御消息』第十一通等に明かされている。
出典(教学伝道研究センター編『浄土真宗聖典(注釈版)第二版』本願寺出版社
『浄土真宗聖典(注釈版)七祖篇』本願寺出版社
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