機法一体の南無阿弥陀仏
出典: 浄土真宗聖典『ウィキアーカイブ(WikiArc)』
きほういったいのなもあみだぶつ
南無は阿弥陀仏をたのむ衆生(しゅじょう)の信心で、それを機といい、阿弥陀仏は衆生をたすけるはたらきをあらわしているから、それを法という。
この機と法とが、南無阿弥陀仏という名号の中に一体に成就されていること。すなわち南無阿弥陀仏とは「たのめ(機)たすける(法)」という救いのいわれをあらわしていると同時に「救いのはたらき(法)にまかせる(機)」という信心のすがたをあらわしていることをいう。
ただし、『安心決定鈔』における機法一体は西山義の生仏不二の原理に立つもので、多義がある。→たすけたまへ、たのむ 補註3
出典(教学伝道研究センター編『浄土真宗聖典(注釈版)第二版』本願寺出版社
『浄土真宗聖典(注釈版)七祖篇』本願寺出版社
区切り線以下の文章は各投稿者の意見であり本願寺派の見解ではありません。
『浄土真宗聖典(注釈版)七祖篇』本願寺出版社
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- →機法一体
これが誤解されると、安易に使われる「生かされて生きる」の語に象徴されるように、宇宙の生命力のようなモノに対する漫然とした感謝の対象になり、無帰命安心に陥る。