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機法一体

出典: 浄土真宗聖典『ウィキアーカイブ(WikiArc)』

きほういったい

Ⅰ →補註3 (御文章 P.1147, P.1179, P.1182)

Ⅱ 機は衆生の往生、法は仏の正覚を指し、仏の正覚成就のままが衆生の往生成就である道理をいう。(安心決定 P.1383)

出典(教学伝道研究センター編『浄土真宗聖典(注釈版)第二版』本願寺出版社
『浄土真宗聖典(注釈版)七祖篇』本願寺出版社

区切り線以下の文章は各投稿者の意見であり本願寺派の見解ではありません。

御開山には機法一体という用語例はない。浄土宗西山派の善恵房証空上人が、他力の道理をあらわす往生正覚一体が衆生の上に現成している状態を機法一体という用語であらわされたとされる。

きほう-いったい

「機」とは衆生の信心、「法」とは阿弥陀仏が衆生を救う力・はたらきのことで、両者は一つであって異なるものではないということ。蓮如は『御文章』3帖目第7通において

「南無」の二字は、衆生の阿弥陀仏を信ずる機なり。つぎに「阿弥陀仏」といふ四つの字のいはれは、弥陀如来の衆生をたすけたまへる法なり。このゆゑに、機法一体の南無阿弥陀仏といへるはこのこころなり。(御文章 P.1147)

と、衆生の「信心」(機)と阿弥陀仏が衆生を救う力・はたらき(法)とは別のものではないことを述べ、あるいは3帖目第2通では、

さてその他力の信心といふはいかやうなることぞといへば、ただ南無阿弥陀仏なり。( P.1137)

1帖目第15通では

南無阿弥陀仏の体は、われらをたすけたまへるすがたぞとこころうべきなり。(御文章 P.1106)

とも述べて、南無阿弥陀仏の六字全体は、そのまま信心(機)のすがたをあらわしたものであり、またそのまま阿弥陀仏の救いの力・はたらき(法)であると見ている。 なお『安心決定鈔』に説かれる機法一体は、西山義の生仏不二の原理に立つものであり、多義がある。浄土真宗における機法一体の意義を明らかにするために、安心論題に「機法一体」が設けられている。→安心論題/機法一体(浄土真宗辞典)

 機法一体の機とは衆生の信心、法とは衆生を救う阿弥陀仏の法のはたらき(力用)のこと。

 この機法一体は、善導大師が六字釈において、南無阿弥陀仏の六字を願と行にわけ、その意味について論じた願行具足論からの展開である。

いまこの『観経』のなかの十声の称仏は、すなはち十願十行ありて具足す。 いかんが具足する。
「南無」といふはすなはちこれ帰命なり、またこれ発願回向の義なり。 「阿弥陀仏」といふはすなはちこれその行なり。 この義をもつてのゆゑにかならず往生を得。(玄義分p.325)

善導大師の六字釈では、南無という衆生の願(帰命の信心)と因位の阿弥陀仏の行(仏の救済の行法)が、南無阿弥陀仏の六字の上に浄土往生の願行として具足成就しているとされた。南無阿弥陀仏という言葉には、浄土往生に必須である衆生の願と行が、つぶさに具わって満足しているので願行具足の六字釈という。

 これを善導大師は、

「十方衆生、わが名号を称してわが国に生ぜんと願ぜんに、下十念に至るまで、もし生ぜずは、正覚を取らじ(十方衆生 称我名号願生我国 下至十念 若不生者 不取正覚)」(往生礼讃 P.711)

と、称我名号の南無阿弥陀仏を称えることが浄土へ生まれて往く正定業であるとされたのである。

 「下十念に至るまで、もし生ぜずは、正覚を取らじ(下至十念 若不生者 不取正覚)」とは、下至十念のわずか十声までの南無阿弥陀仏には、衆生の浄土への往生と阿弥陀仏の正覚が、「もし生ぜずは、正覚を取らじ(若不生者 不取正覚)」と生仏一如に、衆生と仏の正覚の一体として誓われているのである。「衆生もし往生せずば我もまた正覚を取らじ」という自他一如の阿弥陀仏の誓願であった。

 この願行具足論を、救われるべき「」(衆生)と救いの「」の関係で論じたのが機法一体説である。元々機とは機関・機微・機宣(*)とされて教法に対した語であり、教法に対していないならば機とは云わない。ゆえに、南無阿弥陀仏と称える者にとっては機と法は一つであって異なるものではないのである。阿弥陀仏の救済は、南無阿弥陀仏と称える者に願行具足の名号として顕れ、その名号には機の信心がすでに成し遂げられているから、機の信心と仏の本願力の法が名号において一体である。これを機法一体というのである。
蓮如上人はこの機法一体を『御文章』で、

「南無」の二字は、衆生の阿弥陀仏を信ずる機なり。つぎに「阿弥陀仏」といふ四つの字のいはれは、弥陀如来の衆生をたすけたまへる法なり。このゆゑに、機法一体の南無阿弥陀仏といへるはこのこころなり。『御文章(三帖)の七』p.1147 (*)
南無と帰命する機と阿弥陀仏のたすけまします法とが一体なるところをさして、機法一体の南無阿弥陀仏とは申すなり。『御文章(四帖の八』p.1179 (*)
されば弥陀をたのむ機を阿弥陀仏のたすけたまふ法なるがゆゑに、これを機法一体の南無阿弥陀仏といへるはこのこころなり。これすなはちわれらが往生の定まりたる他力の信心なりとは心得べきものなり。『御文章(四帖の十一』p.1183 (*)
このゆゑに南無の二字は、衆生の弥陀をたのむ機のかたなり。また阿弥陀仏の四字は、たのむ衆生をたすけたまふかたの法なるがゆゑに、これすなはち機法一体の南無阿弥陀仏と申すこころなり。この道理あるがゆゑに、われら一切衆生の往生の体は南無阿弥陀仏ときこえたり。『御文章(四帖の十四』p.1187 (*)

などと、いわれたのであった。

 この蓮如さんが使われた機法一体という語は元々浄土宗西山派の証空上人が使われたとされ、その系統の浄土宗西山派の書といわれる『安心決定鈔』からであろう。[1]御一代記聞書の(249)には、

「前々住上人(蓮如)仰せられ候ふ。『安心決定鈔』のこと、四十余年があひだ御覧候へども、御覧じあかぬと仰せられ候ふ。また、金(こがね)をほりいだすやうなる聖教なりと仰せられ候ふ」 (聞書p.1313)

とあり、蓮如上人は『安心決定鈔』を熟読されていたのであった。

 なお、『安心決定鈔』には種々の機法一体説が説かれ、西山派の生仏不ニの立場から、衆生の往生と仏の正覚の機法一体を説くのである。
蓮如上人も、

阿弥陀仏の、むかし法蔵比丘たりしとき、「衆生仏に成らずはわれも正覚ならじ」と誓ひましますとき、その正覚すでに成じたまひしすがたこそ、いまの南無阿弥陀仏なりとこころうべし。これすなはちわれらが往生の定まりたる証拠なり。されば他力の信心獲得すといふも、ただこの六字のこころなりと落居すべきものなり。『御文章(四帖の八』p.1179 (*)

と、機法一体を論じた後に、正覚を成じた果名の南無阿弥陀仏は、往生の「往生の定まりたる証拠なり」といわれるのだが、往生正覚の機法一体説はこれを使われない。かえって、

十劫正覚のはじめより、われらが往生を定めたまへる弥陀の御恩をわすれぬが信心ぞ」といへり。これおほきなるあやまりなり。そも弥陀如来の正覚をなりたまへるいはれをしりたりといふとも、われらが往生すべき他力の信心といふいはれをしらずは、いたづらごとなり。」『御文章(一帖の十三』p.1102 (*)

と、往生正覚不二を憶念することを信心の体とすることは、これを十劫正覚として否定しておられる。浄土真宗のご信心とは現在ただ今の信を指すのであり過去や未来に求めるものははないという意からであろう。

蓮如上人のご教化は信心正因一本槍で、なんまんだぶのお勧めがないという人もいるのだが「タスケタマヘ」や「機法一体」の教説や、

南無阿弥陀仏の体は、われらをたすけたまへるすがたぞとこころうべきなり。『御文章(一帖の十五』p.1106(*)

とあり、『御文章』を委細に窺えば、なんまんだぶが溢れているのであった。

なんまんだぶなんまんだぶ なんまんだぶ

機法一体の正覚
を称念し
名体不二
安心論題/機法一体
安心決定鈔 P.1382 解説

  1. 覚如上人の『願願鈔』に「信心歓喜すれば機法一体になりて、能照所照ふたつなるににたれどもまったく不二なるべし」(願願鈔#P--46)とあり、存覚上人の『存覚法語』には「佛の正覚は衆生の往生によりて成じ、衆生の往生は佛の正覚によりて成ずるがゆへに、機法一体にして能所不二なるいはれあれば」(存覚法語#P--366)とあり、六要鈔にも「既に仏願に帰すれば、機法一体・能所不二にして、自ずから不行而行の理あり。故に不捨という。機の策励にあらず。これ法の徳なり」とある。覚如上人や存覚上人は、西山義の安養寺、阿日房彰空や慈光寺、勝縁から一念義の幸西の凡頓一乗に学んだことがあるといわれ、西山義や幸西大徳の一念義にも通じていたと思われる。