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かならず…懐いて

出典: 浄土真宗聖典『ウィキアーカイブ(WikiArc)』

欲明 一切衆生身口意業所修解行 必須真実心中作。
一切衆生の身口意業所修の解行、かならずすべからく真実心のうちになすべきことを明かさんと欲す。
不得外現賢善精進之相 内懐虚仮。
外に賢善精進の相を現じ、内に虚仮を懐くことを得ざれ。
貪瞋邪偽奸詐百端 悪性難侵 事同蛇蝎 雖起三業 名為雑毒之善 亦名虚仮之行。
貪瞋・邪偽・奸詐百端にして、悪性侵めがたく、事蛇蝎に同じきは、三業を起すといへども名づけて雑毒の善となし、また虚仮の行と名づく。
不名真実業也。
真実の業と名づけず。
若作如此 安心起行者 縦使苦励身心 日夜十二時 急走急作 如炙頭燃者 衆名雑毒之善。
もしかくのごとき安心・起行をなすものは、たとひ身心を苦励して、日夜十二時急に走り急になすこと、頭燃を救ふがごとくするものも、すべて雑毒の善と名づく。
欲回此雑毒之行 求生彼仏浄土者 此必不可也。
この雑毒の行を回して、かの仏の浄土に生ずることを求めんと欲せば、これかならず不可なり。
何以故 正由彼阿弥陀仏 因中行菩薩行時 乃至一念一刹那 三業所修 皆是真実心中作 凡所施為趣求 亦皆真実。
なにをもつてのゆゑに。 まさしくかの阿弥陀仏因中に菩薩の行を行じたまひし時、すなはち一念一刹那に至るまでも、三業の所修、みなこれ真実心のうちになしたまひ、おほよそ施為・趣求したまふところ、またみな真実なるによりてなり[1]。(散善義 P.455)
  1. 真実の人であった善導大師にとっての至誠心とは、阿弥陀仏が因中に菩薩の行を行じた法蔵菩薩と同じ至誠心でなければならないとされた。 さすが天才の法然聖人も『観経疏』を読まれ「善導において二へんこれを見るに往生難しと思えり。第三反度に、乱想の凡夫、称名の行に依って、往生すべしの道理を得たり」(『醍醐本法然上人伝記』善導教学との出あい) といわれるほど善導大師の至誠心釈は難解であった。
    この至誠心は深信釈の第一釈(機の深信)の、罪悪生死の凡夫に回施する至誠心であると示唆されたのは法然聖人であり(『法然教学の研究』)、この意を承け本願力回向の二種回向として展開されたのが御開山であった。